日ロ医療協力とロシアにおける医師の社会的地位の改善(1)-松本かおり

ロシア国旗

概要

医療協力は8項目の日ロ協力の最初に挙げられているが、ロシアの医療サービスはさまざまな問題を抱えており、単に日本の医療技術・機械を輸出するだけでは成功しない。同時に、ロシアにおける医師の社会的地位を向上させ、優秀な医療従事者を育成し得るような改革が必要である。この二つがかみ合って初めて日ロ医療協力が実を結ぶであろう。こうした問題意識から、2回にわたりロシアにおける医師の社会的地位の現状を明らかにする。

はじめに

ロシアの健康寿命の伸長のための日本式医療の提供は、日本の対ロ経済協力プランの原案8項目のうちの第1番目に挙げられた。2016年12月のプーチン大統領の日本訪問の際には80事業の推進について合意がなされ、特に医療分野については三井物産や理化学研究所による協力が見込まれている。
しかし、それを実際に進めていくためには、医療機器や医薬品技術の支援(充実)だけではなく、それを有効に活用するための医療制度や医療従事者の技能向上も欠かすことができない。

プーチン大統領は、2013年末の年次教書演説で次のように述べている。「-教師、大学教師、医師の仕事が再び尊敬され、有能な大学卒業生が憧れる職業となるように、われわれは教育と保健分野の給料を引き上げる。だが、・・・ふさわしい給与は、単なる予算の注入によってではなく、支出の効果を上げることを目指す改革によって保障される。大切なことは、学校、大学、診療所や病院の仕事が改善されつつあると国民が感じるような社会サービスの質の向上である」。
年次教書演説でこのような発言があるということは、教師、大学教授、医師などの職業威信がよほど低いこと、そして給料が低いと同時にその仕事の質も低いということを、大統領自身が率直に認めているということだ。
 それでは、ロシアにおけるこれらの職業の地位は、実際のところどの程度低いのだろうか。職業の社会的地位を示す指標として、社会学の階層研究では「職業威信スコア」が用いられる。これは、学歴や資格などの「文化的資源」、所得や財産による「物質的資源」、社会における力や威信を示す「関係的資源」の三つの資源が不平等に分配された状況を示す指標である。以下、2000年、2004年、2010年に筆者がロシアのウラジオストクで実施した職業威信調査に基づいて、医療従事者の社会的地位について2回にわたって考えてみたい。

1. 日本と異なるロシアの医療従事者の社会的地位

日本の医師は最も高い社会的地位(職業威信)を持つ職業の一つで、専門的な知識が必要で、高学歴、高収入の印象がある職業でもある。例えば、2000年の日本の調査データでは、国立病院の医師(4位)も民営病院の医師(8位)も60職業中の上位に位置する。一方、プーチン大統領が述べた通り、ロシアの医師、特に国立病院の医師の職業威信は非常に低い。2000年調査では60職業中39位、2004年調査で38位、2010年調査では34位となっており、わずかながらも上昇傾向にあるとはいえ、大農場経営者、警察官やサーカス芸人とほとんど変わらない状況である(表1)。一方、民営病院の医師は国立病院の医師よりは高い。2000年調査で13位、2004年調査で9位、2010年調査で7位となり、2000年にはそれほど高い位置にはなかったが、それ以降は上昇傾向にある。

表1 ウラジオストク2000年調査・2004年調査・2010年調査の職業威信スコア

表1 ウラジオストク2000年調査・2004年調査・2010年調査の職業威信スコア
表1 ウラジオストク2000年調査・2004年調査・2010年調査の職業威信スコア

出所:ウラジオストク2000年調査、2004年調査、2010年調査の結果を基に筆者作成

2. 国民に信頼されない医師(関係的資源の低さ)

ソ連時代、第2次世界大戦前後に工業化が推し進められる中で、全国民に対する無料診療を基本とする医療制度が確立され、医師で科学アカデミー会員、保健省人民委員であったN.A.セマシュコ氏の名にちなんでセマシュコモデルと名付けられた。このモデルは、公衆衛生の水準を高めるのに貢献したが、1960年代以降ロシア人の平均寿命は伸びず、限界が露呈した。医療が無料である一方で、保健省から直接支払われる医療従事者の賃金は低かった。このため、賄賂を受け取るのが当たり前のようになってしまい、医療従事者のモラルハザードが生じた。

1970年以降は、医療の質の低い地域の医師にかからずに専門医療の医師を直接受診する人が増えるなど、プライマリー・ケアが軽視され、地域の医師が病状に応じて5段階の病院(地方自治体から連邦レベルまで)を患者に紹介するというシステムも働かなくなっていた。
さらに1980年代後半から1990年代前半にかけてのペレストロイカからソ連崩壊、経済政策の変更という社会的変化は、デヴィッド・スタックラー、サンジェイ・バス著『経済政策で人は死ぬか? -公衆衛生学から見た不況対策』(草思社、2014年)の中で、その実例として取り上げられるほどに、人々の生活と健康に悪影響をもたらした。
この結果、今日に至るまでロシアにおける医師や医療技術に対する国民の信頼は低いままである。概して旧社会主義諸国では医師に対する信頼は低いが、その中でもロシアは際立っている。最近では、ドイツ、イスラエル、韓国、シンガポールなど海外に治療に出掛けるロシア人が増え、いわゆる医療ツーリズムが盛んになっているほどだ。
医師自身の意識も、国民から尊敬される状況とはいえない。医師が最も重視しているのは収入であり、職業的な関心や患者を助けたいといった意識は低いままである。

3. 医師:高学歴にもかかわらず人気のない職業(文化的資源の低さ)

ロシアの医療分野の国立高等専門教育機関入学の競争率は2倍前後で、1990年から2000年の統計を見る限りでは変動がほとんどなく、他の専門教育機関に比べて特別に高い競争率ではない(全分野の平均が1.9倍)。
1995年以降医療分野の在学者数が増加しているが、大学生総数の増加により、医療分野の学生の割合は1990年時点で大学生総数の約7%を占めていたのが、むしろ約4%へと減少した。

一般的な大学生の在学年数は5年間であったが、欧州高等教育圏のボローニャ・プロセスに加盟したため、現在は4年間に移行している。しかし、医科大学あるいは医学部の教育は、基本的に6年間のコースであることに変更はなく、ソ連時代とほとんど変わっていない。例えば、内科医の学部医学教育は、後期中等教育を終えて直接入学した学生に対する、医科大学あるいは総合大学の6年間のコースである。現場に配属される前に、医学部の卒業生は少なくとも1年間インターンとして研修を受けなければならない。専門医になるためには、さらに1年間インターンとしての訓練が必要である。

加えて、大学から公布された証明書は5年ごとに確認されなければならず、医者は3~5年ごとに2~4カ月の継続医学教育や公式の追加課程を受講する必要がある(ただし、そのような教育は十分には行われていないのが実情であるが)。このように、医師はインターンを含めると7~8年間の学びが必要で、さらに継続的な教育を受けなければならず、他の高等教育修了者よりも高度な専門性を持つといえる。しかし学歴は、国立病院の医師の職業威信スコアを見る限り、医師の職業威信を高めているとは言い難い。

学生たちは、修了時に研究コース修了の証書を受け取り、カリキュラムや研究レベルによって、地域の医者か専門医のどちらかで働く権利が与えられる。ソ連時代の新規学卒者の就職指定制度である「新卒者の国家的・指令的配分」の慣習が残っていることから、国家から指令書を受け取って勤務地が決められる卒業生が多い。例えば、医療分野の国立高等専門教育機関の卒業生で指令書を受け取ったのは、2000年に62.8%、その後減少しつつも2012年には42.4%である。ロシアの病院または診療所のほとんどが現在も国立であることの影響も大きいのだろう。自由就職が難しく、地方医師として派遣される可能性がある点も、職業威信を下げる要因の一つになっていると考えられる。

[執筆者]松本 かおり(神戸国際大学准教授)

※この記事は、この記事は、2017年3月8日付けで三菱東京UFJ銀行グループが海外の日系企業の駐在員向けに発信しているウェブサイトMUFG BizBuddyに掲載されたものです。


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