日ロ医療協力とロシアにおける医師の社会的地位の改善(2)-松本かおり

ロシア国旗

概要

ロシアにおける医師の社会的地位は少しずつではあるが上昇傾向にある。しかし、依然として医療制度には根深い問題が数多く存在する。また、ソ連時代の無料診療の伝統が残る一方、高額でも質の高いサービスを受けたいという国民の医療に対する意識の変化も見られる。本編後半では、医療従事者の賃金、医療機関の民営化や医療費の現状から、ロシアの医療現場と日ロ医療協力の今後を展望する。

4. 低い医療従事者の賃金(物質的資源の低さ)

ロシアの医療従事者の職業威信に影響を与える物質的資源の代表例として、賃金データを確認してみよう。表2と表3に1940年から2010年までの各経済分野別月平均賃金の割合を示した(表が二つに分かれた理由は、1940年から2000年までは「保健、スポーツ、社会保障」が一つのグループとして算出されていたのに対し、2000年以降の統計では「保健、社会的サービスの提供」が一つのグループとなり、含まれる職業が異なるようになったためである)。

ロシア連邦統計局によって公表されている平均賃金は経済分野別になっており、さまざまな分野が組み合わせられている上、さまざまな職種が含まれている。また、大統領が直々に年次教書演説で医師の地位について言及した後の2013年以降に、ロシア連邦統計局のホームページ上で、高等医療従事者、中等医療従事者、初等医療従事者の賃金を区別した数字が遅まきながら公表され始めている(表4)。このため、2012年以前については、医療分野だけでなくスポーツと社会保障分野の従事者全体の平均賃金であり、それ以降については医療従事者の平均賃金である。

表2の「保健、スポーツ、社会保障」分野と、表3の「保健、社会的サービスの提供」分野(以下、合わせて保健分野)の平均賃金の推移を確認すると、大祖国戦争中に保健分野は全産業平均賃金よりも2割程度高い水準にあったにもかかわらず、戦後は一貫して低くなり、2000年には全産業平均賃金の6割にまで落ち込んだ。2013年以降の医療従事者の学歴別平均賃金(表4)を確認すると、中等医療従事者(薬学)と初等医療従事者の平均賃金は低いままであるが、高等医療従事者(医師や職員)の賃金は全産業平均の140%と平均を大幅に上回った。金融業者などには及ばないとはいえ、今後の医師の社会的地位を上昇させる要因になるかどうか興味深い。

資本主義国に対抗する重工業重視の国策によって、重工業の労働者は相対的に高い賃金を得てきた一方で、専門的職業、知識人(インテリゲンツィア)の収入や待遇は低かった。ソ連時代の遺産として、この慣習が現在まで払拭されず、今回の職業威信調査の結果にも影響を与えている可能性がある。

医療機関の所有形態別に見ると、特に国立病院の医師の職業威信は低い。国立病院と民営病院の医師の地位と賃金を比較してみると(表5)、国立医療機関の賃金は2000年には産業全体の平均の64.4%しかなかった。それが12年かけて徐々に平均に少しずつであるが近づき、81.6%へと上昇している。職業威信スコア調査の結果からは、民営医療機関の賃金が高いことが予想されたがそれほどでもなく、2000年時点で国立医療機関よりも少々高かった(68.9%)にすぎなかったが、2010年にその数値は逆転した。2000年時点で産業全体よりも賃金が相対的に高かったのは、ロシア資本合弁医療機関と海外資本(あるいは海外とロシア合弁)医療機関だけである。回答者が民営病院として思い浮かべたのが、外国企業との合弁の医療機関であったのかもしれない。

表2 1940~2000年 各経済分野別月平均賃金の割合】(全産業平均を100とする)

表2 1940~2000年 各経済分野別月平均賃金の割合】(全産業平均を100とする)

1) 1940年から1955年のデータには、コルホーズは含まれていない。
2) 1995年以降は、芸術を含む。
3) 1992年以降は、地質調査、測地・気象観測業を含まない。

出所:ロシア連邦統計局の資料を基に筆者が算出・作成
http://www.gks.ru/wps/wcm/connect
/rosstat_main/rosstat/ru/statistics/wages/

表3 2000~2010年 各経済活動別月平均名目賃金の割合(全産業平均を100とする)

表3 2000~2010年 各経済活動別月平均名目賃金の割合(全産業平均を100とする)

出所:ロシア連邦統計局の資料を基に筆者が算出・作成
http://www.gks.ru/wps/wcm/connect
/rosstat_main/rosstat/ru/statistics/wages/

表4 医療従事者の学歴別平均賃金】(全産業分野平均との比較) (単位:ルーブル、%)

表4 医療従事者の学歴別平均賃金】(全産業分野平均との比較) (単位:ルーブル、%)

出所:ロシア連邦統計局ホームページを基に筆者作成
http://www.gks.ru/free_doc/new_site/
population/trud/itog_monitor/zarplata.html

http://www.gks.ru/wps/wcm/connect/rosstat_main
/rosstat/ru/statistics/wages/

【表5 所有形態別医療従事者の月平均名目賃金】(単位:%)

【表5 所有形態別医療従事者の月平均名目賃金】(単位:%)

出所:Социальное положение и уровень
жизни населения России.
2013;Здравоохранение в России. 2013
を基に筆者が算出・作成

5. 医療の民営化と医療費

ロシアの民営病院と国立病院の医師の威信に差があったことから、民営医療機関の状況についてやや詳しく見てみよう。

入院施設のある病院の所有形態は、1990年には全て国立であった。民営病院数がロシア連邦統計局の統計上に表れたのは2006年のことである。1990年に1万2762施設あった国立病院は2012年には5,820施設へと半減した。2006年の民営病院は148施設と記録されたが、2012年には127施設とやや減っており、全病院数の約2%を占めるにすぎない。次に外来診療所数を確認すると、1990年には全て国立で2万1527施設あったのが2012年には国立診療所が1万2029施設に減少している。民営の外来診療所は2006年に4,206施設、2012年には3,363施設と減少傾向にはあるが、外来診療所全体の約20%を占めている。つまり、外来診療所では民営施設の割合は少々増えているが、病院では民営施設はほとんどないのである。

民営医療機関の歴史はまだ浅いが、以下、2013年にロシアで発表された研究に基づいて、その特徴を見てみよう(詳しくは参考文献を参照)。これによれば、民営医療従事者の賃金は国立医療従事者の賃金より17%高く、その42%で仕事量や質を考慮した割増賃金を支払っており、医師のインセンティブを向上させる仕組みがある。また、民営医療機関の3分の1以上が自宅で小規模に診療を行っており、歯科、眼科、婦人科、美容といった救急治療の負担がない分野が多く、国立医療機関よりも勤務時間に余裕があると考えられる。また投資に対して早期に採算を取ることができる部門が中心となっている。

医師数の変化を専門分野別に確認すると、結核専門医や衛生防疫グループ医、一般衛生医などの、ソ連時代のセマシュコモデルの医療で重視された公衆衛生や予防に携わる医師、外科医、小児科医、産婦人科医、X線専門医・放射線科医などが大幅に減少した。それに対し、眼科医、神経科医、精神科医・麻酔科医、皮膚科医・性病科医、口腔科医、総合診療医が増加している。増加した専門分野は民営診療所が好む分野と重なっており、おそらく採算性が高く、勤務条件が良い分野と考えられる。
ほとんどが大都市にあり、地方に住む負担もない点でも、医療従事者にとっては大きなメリットがありそうだ。このような賃金以外の条件も、民営病院の医師の地位を上げる要因となっているのではないだろうか。

ただし、民営医療機関が増えることによって、市場のニーズに合った分野が増える可能性もあるが、医療の市場化によって経営的に都合の良い分野の都合の良い地域だけに医師だけが増え、国民が必要とする分野の医師が不足する可能性がある。

2013年のロシアの医療費(公的支出+民間支出*)の国内総生産(GDP)に占める割合は、1995年の体制移行開始直後の5.37%から6.55%とわずかに高くなっているが、経済協力開発機構(OECD)諸国の中では2013年のデータがある39カ国の中で下から10番目であり、決して高いわけではない。2013年の数値で見ると、旧社会主義国のチェコ(7.1%)とハンガリー(7.4%)がロシアに比較的近い数値である。その次に英国が8.5%、日本、スウェーデン、ドイツの3カ国が10%前後の数値となっている。医療費のGDP比が最も大きいのは、医療の市場化が最も進んでいる米国で、その比率は16%を超えて政府の負担が大きくなっている。しかも米国では、政府の負担が国民の健康に反映されておらず、例えば2013年の出生時の平均余命は、体制移行により軒並み平均余命が低下した経験を持つ東欧諸国とさほど変わらない。デヴィッド・スタックラー、サンジェイ・バス著『経済政策で人は死ぬか? -公衆衛生学から見た不況対策』(草思社、2014年)では、医療の効率化・市場化の名の下に、米国の医療に対する政府の予算は一部の投資家や製薬会社の懐へと消えているという問題点を指摘している。

図1で全医療費における公的支出の割合を確認すると、公的支出の割合が急激に下がっているのがロシアである。その割合は、1995年の体制移行開始直後に73.9%であったのが、2013年には48.1%となり、市場化が最も進んでいる米国とほぼ同じ割合になった。これに対してチェコの公的支出の割合の減少は緩やかで(89.7%から84.1%)、体制転換の進め方の違いが明確に見られる。ハンガリーはその中間のスピードで82.9%から64.6%に変化した。

図1 国際比較・全医療費における公的支出の割合(単位:%)

図1 国際比較・全医療費における公的支出の割合(単位:%)

出所:OECDホームページを基に筆者作成(https://data.oecd.org/healthres
/health-spending.htm

(2015年9月16日付)

ただしロシアでは、有料医療は特に新しい現象ではなく、ソ連時代にも便宜を図ってもらうための非公式な支払いがあったことはよく知られている。現在のところ、米国と比べてロシアの医療費自体が安いという点で状況は異なっているが、医師の賃金上昇を目指すとしても、国民の支払い能力を超えた金額になっていかないかなど、今後の推移を見守っていく必要があるだろう。


* 公的支出とは税金や社会保険、民間支出とは自己負担、民間保険、寄付などのことである。

おわりに

このように、ウラジオストクで筆者が実施した10年間にわたる職業威信調査を見ると、ロシアにおける医師の社会的地位は少しずつとはいえ上昇傾向にあるが、依然として医療制度には根深い問題が数多く存在することは明らかである。ロシア連邦統計局の調査でも、医師の賃金は上昇傾向にある。しかし、2011年にロシアで行われた調査でも、医師の給料を上げるべきと考える人々が39%であったことから考えると、今も医師の賃金は決して高くはない。これまでインフォーマルな支払いが常態化してきたのは、賃金の低さによるところが大きい。2004年の調査では、ロシア国民が医療に金を払う理由は無料診察によって国家予算が不足しているためだったのに対し、2011年の調査では、代金を支払うことによってより質の高いサービスを受けたいという理由に変化し、国民の医療に対する意識が変化していることが分かる。

ロシアでは、医療に対するマイナスの感情が医療の安易な利用を抑えているというメリットもあるが、このような状況で国民の健康を向上させることができるだろうか。ソ連時代の遺産として基本的に無料治療の伝統があること、強制医療保険への加入割合が高い(ロシアでは90%以上)ことなどの旧社会主義国のメリットとなり得る部分は、もはや生かされていない。このため、ロシアの医療に対する信頼は依然低いままである。

ロシアにおいても高度医療に対するニーズは高く、日本とロシアの医療協力の潜在性は高い。しかし、一部の富裕層だけがこうしたサービスを受けられるようなるだけでは、医療に対する国民の信頼を回復し、医療関連分野の市場を拡大することは難しい。まず、ロシアにおいて医療に対する信頼を回復することが必要である。そのためには、フォーマルに医師が納得できる賃金を受け取り、インフォーマルな支払いを請求する経済的理由がなくなり、国民が納得のいく料金で治療を受けられるような改革が求められるだろう。

日ロ医療協力は、単に日本から高度な医療技術・機械を輸出するだけで事足りるわけではない。同時に、ロシアにおける医療従事者の社会的威信を高め、医療技術を使いこなせる優秀な医療従事者を育成する必要がある。いわばハードとソフトがかみ合うことが必要であり、日ロ医療協力は、そのきっかけとなるかもしれない。それは、ロシアにおける医療サービスを改善するばかりでなく、日本の医療技術に対する信頼を高めることにもつながるはずだ。

参考文献
松本かおり「ロシア社会における医療従事者の地位-2000年~2010年の時系列調査の結果を通じて」『ロシア・ユーラシアの経済と社会』No. 1010, 2016, 2-24
松本かおり「ロシアの医療制度の転換に関する一考察-セマシュコモデルをこえて」『神戸国際大学経済経営論集』第35巻2号, 2015, 57-73

[執筆者]松本 かおり(神戸国際大学准教授)

※この記事は、この記事は、2017年3月15日付けで三菱東京UFJ銀行グループが海外の日系企業の駐在員向けに発信しているウェブサイトMUFG BizBuddyに掲載されたものです。


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