ロシアの現金主義-菅原信夫

ロシア国旗

概要

近年、ロシアではデビットカードが急速に普及している。だが、依然として現金需要が旺盛である。ロシア的なチップの存在、銀行振り込みと現金の組み合わせによる税金の負担軽減など、現金が経済の潤滑油として大きな役割を果たしているからである。

プロローグ

ソ連時代、ロシア人がズボンのポケットからもぞもぞと取り出すルーブル紙幣の束は、見た目にもくたびれているし、異臭もあった。その上、適度な湿気があって、今にもかびが生えそうな感触なのだ。ヨレヨレの紙幣の表面には、にじんだインクで数字が書かれていたりする。実に多くの人の手から手を経たことが分かる紙幣であった。触るのがいい気持ちであるわけがない。どうやらロシア人も同じとみえて、1980年代には外国貿易銀行など大手銀行に紙幣を勘定する紙幣計算機が入り始め、ちまたの両替屋には中国製の簡易計算機が入るようになった。

たかが10枚程度の紙幣など、手で勘定する方が早かろうと思うが、機械が入ると額の多寡には関係なく、ともかく機械を通して記録を残すのがマニュアルだ。ここで紙幣計算機は一気に広まることになる。こんな様子をソ連、そしてロシアの街角で見続けてすでに40年以上。今回はロシアの現金にまつわる話を幾つか紹介したい

エピソード(1)

ロシアが経済的にも安定する2000年代には、日本や欧州からグローリーやNCRといった専門メーカーが事務所をモスクワに開き、民営化した銀行に紙幣計算機を売り込むべく駐在員は出張を繰り返しながら、ロシアの隅々まで出掛けるようになった。ルーブルの価値が上昇するにつれて偽札も頻繁に登場するようになり、紙幣計算機には紙幣を勘定する以上に、偽札を感知し、これを排除する機能が求められてくる。このためメーカーは、ロシアの銀行が保有している「本物の偽札」を借り出し、そのパラメーターを測定、企業機密として保管するとともに、機械にはパラメーターを読み込ませて、そのような偽札は確実に排除するように機械を調整する。ただ、このあたりの情報がロシア中央銀行から海外メーカーに流れることは機密漏えいにもつながりかねず、さすがの中央銀行も頭を抱えていたと聞く。
最近はこの紙幣計算機の国産化が進み、外国製よりロシア製のものが増えていると聞いたことがある。銀行の窓口を見ても、明らかにロシア製と思われる計算機が使用されていて、偽札を巡るビジネスは外国からロシア国内に戻ってきたと思われるが、同時にわれわれ第三者にも情報は聞こえてこなくなった。ロシアは紙幣に関する限り、独り立ちし始めたとみられる。

エピソード(2)

ロシアでの飲食時に、店員に渡すチップの習慣はいつごろから始まったのだろう。少なくとも、ソ連時代にはチップという習慣はなく、請求書通りの支払いをして店員に文句を言われることはなかった。

それが今はどうだろう。「チェックお願いね」というと、大きな玉手箱のような箱にチェックが入ってくる店がある。クレジットカード払いであろうが、チップは現金で支払われるので、そのための箱なのだろう。欧米の先進国ではチップは飲食代の15~20%などというアドバイスが旅行書に載っているが、ロシアではそんなことはない。多くても10%以上を置くことはないし、筆者の場合は総額で1,000ルーブルを超える食事の場合、1テーブル当たり夕食時200ルーブル、昼食時100ルーブルと自分で決めた定額制を活用している。まあ、それほど高級なレストランに入ることがないからかもしれないが、これで文句を言われたことは一度もない。
欧米の場合、個々のウエーター、ウエートレスが客から受け取ったチップは、いったん店のチップ勘定にキープされることが多い。その後、営業収入として売り上げの中に合算されてしまうが、ロシアでは違う。チップはあくまで、客とサービススタッフとの関係による。成功した起業家が、それこそ1,000ルーブル札を何枚もこれ見よがしにテーブルの上において帰るのを見ることもあるが、一般的にはクレジットカードで支払いを済ませ、最後の帰る直前にテーブルに飲食代とは関係なく500ルーブルを1枚置いて帰ったりする。多くの場合、私のしているような定額制チップよりも金額は大きく、内心ロシア人の気前良さに驚くことが多い。だが、この方法だと計算も不要だし、小銭を探す必要もない。

タクシーもチップを考えると面倒なものだが、ロシアの場合は料金を丸める程度で特に問題はない。550ルーブルなら600ルーブル、1,420ルーブルなら1,450ルーブルにする、そんな感覚である。ただ、時に運転手が釣り銭を持っておらず、1,600ルーブルの料金に対して2,000ルーブルを渡すと、400ルーブルはチップとなって運転手のポケットに収まってしまうことがよくある。運転手が本当に釣り銭を持っていないのか定かではないが、小銭を準備せずにタクシーに乗った自分の準備の悪さを責めるのが順当であろう。

エピソード(3)

現代ロシアにおいて、現金は税の負担軽減のための大変重要な道具である。ここに月給5万ルーブルで雇用されている事務員がいるとしよう。この事務員に対する会社の負担総額は、社会保険や法律で定められている手当など総額45%程度の経費を加えた額、7万2500ルーブルになる。もし、5万ルーブルを銀行経由で2万ルーブル、現金で3万ルーブルと分けて支払うとどうなるか。社会保険、手当、税金の45%は銀行経由の2万ルーブルにのみかかってくるので、ここは9,000ルーブルとなり、合計5万9000ルーブルとなる。全額を銀行振込で支払うより、1万3500ルーブルの節約となる。こういうときの現金で支払われる給与のことをグレーサラリーという。完全な脱税ではないが、かといって決してほめられたものでもない。従って「灰色」ということである。

この「灰色支払い」は、給与だけではなくいろいろなケースで使われる。例えば、弊社が利用している現地の小規模会計事務所。私と税理士の間に信頼関係が生まれてくると、税理士はおもむろに、料金の半額は現金でよろしい、と支払い条件を軟化させてくる。当社も合計コストを節約できるし、税理士も見える売り上げを下げて税の負担軽減を図ることができる。まさにウィンウィンの関係になる。

エピソード(4)

ロシアの現金主義はいつごろから始まったのかという疑問は、ロシアに住んでいる間、形を変えても、ほとんどいつも頭の中にあった。

帰国後、日比谷図書館で古いソ連関係の書物を探していると、コロンビア大学教授のジョージ S.カウント氏が書いた「自動車にて赤露を探る」という昭和6年刊の本が目に留まった(”A Ford Crosses Soviet Russia” by George S. Counts, 1930, 文明協会編集部訳、昭和6年6月文明協会刊)。そのころ、いろいろな手段でソ連を旅するのが米国では流行していたようで、車をソ連に持ち込む人も結構いたらしい。ニューヨークで積み込んだフォードをレニングラードで荷揚げする。このときに、大量の現金が必要になったと、筆者は驚きを交えて書いている。

車を実際に陸揚げする人夫や彼らに指示を出す人夫頭、彼ら全員に何がしかのチップを与えねばならない。さらに税金を支払う段になり、今度は税官吏への賄賂性の高いチップを支払う。かなり大量に用意したにもかかわらず、途中でルーブル紙幣が不足し、ドルを握って街中の銀行に走る。しかし、全ての銀行に両替行為が認められているわけではなく、銀行員は理由をあれこれ挙げては面倒な両替を引き受けようとはしない。そこで、目をつけた銀行員にチップをそっと与え、とにかくルーブルを手に入れる。こんな外国人の苦労話が延々と書かれている。

驚くのは、1917年のソ連誕生から15年近く経過しているのに、ルーブル・ドルの交換レートが発表されていないとか、市中銀行には少量のルーブル紙幣しか用意されてない、ということである。革命は政治的に時代の先端を行ったが、経済的には農奴経済に戻ってしまっていた、ということがいえるのかもしれない。ともかく非常に面白い本で、昭和6年の日本人がよくもこんな原書を見つけ、それを訳出したものだと感心した。

エピローグ

現代ロシアにおいて驚くのは「クレジットカード」が思いの外、普及していることだ。スーパーで買い物をしていると、自分を含め、前後に並んだ客が皆カードで買い物をしていることはよくある。

ただ厳密に言うと、予想外に普及しているカードは資格審査の厳格なクレジットカードではない。最近、日本でようやく一般化しつつあるデビットカードだ。実は、ロシアではクレジットカードとデビットカードの違いがあまり認識されておらず、デビットカードを見せながら「このクレジットカードで支払えますか」と質問をしていることがある。ロシアではもう10年以上前から、銀行で一定の金額以上の預金口座を開くと、ほぼ自動的にデビットカードを貸与してくれる。このデビットカードの口座は、預金口座とはまた別になっていて、デビットカードで自分の預金口座の預金を引き出すことはできない。まず、預金口座から必要な金額をデビットカードの口座に移動させておく必要がある。これが面倒なので、給料などは直接デビットカード口座に会社から振り込んでもらっている人が増えている。そうなると、デビットカードが全ての支払いのための鍵となり、現金の登場する場面は極端に減ってくる。

にもかかわらず、街にはものすごい数の現金自動預払機(ATM)があって、連日連夜(基本的には24時間稼働)現金を吐き出しているわけで、どこにそれだけの現金需要があるのか、長い間、私には理解不能であった。ロシアには、銀行口座を経由する「表」の取引と、デビットカードで現金を出し入れするためのデビットカード口座があり、その現金を使用する「裏」の取引が存在していること、また「表」と「裏」をつなぐ鍵がデビットカードであることなどに気付いたのは、実はそれほど昔のことではない。
現金を潤滑油として非常に元気な「裏経済」が存在する国、ロシア。興味は尽きない。

[執筆者]菅原 信夫(有限会社スガハラアソシエーツ代表取締役)

※この記事は、2017年7月31日付けで三菱東京UFJ銀行グループが海外の日系企業の駐在員向けに発信しているウェブサイトMUFG BizBuddyに掲載されたものです。


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