103.ロシア社会に見るFIFAワールドカップ(W杯)ロシア大会の影響-菅原信夫

ロシア国旗

概要

国際サッカー連盟(FIFA)ワールドカップ(W杯)ロシア大会を支えたのは、総勢1万7000人といわれる教育水準の高いボランティアの人々でした。彼らの活動は、外国の人々のロシアに対する好印象を生み出したばかりでなく、彼ら自身も西欧を身近に感じるようになりました。近い将来、教養あるロシアの青年たちが世界に進出していく日が来るのかもしれません。

ロシア政府やガスプロムの全面的支援を受けて行われた国際サッカー連盟(FIFA)ワールドカップ(W杯)ロシア大会を支えたのは、総勢1万7000人といわれる教育水準の高いボランティアの人々でした。彼らの活動は、外国の人々のロシアに対する好印象を生み出したばかりでなく、彼ら自身も西欧を身近に感じるようになりました。近い将来、教養あるロシアの青年たちが世界に進出していく日が来るのかもしれません。

この原稿は米中間選挙の結果がほぼ明らかとなった2018年11月7日に書いています。今回の選挙の結果、米上院、下院での共和党、民主党のねじれ現象がますます強まることになるようですが、結果的に考えると、引き続きトランプ大統領率いる共和党が米国をリードしていく、という構図には変化はありません。

米国の経済政策は、トランプ大統領になってからますます自国第一主義となり、アメリカ・ファースト、自給自足の経済などと説明されていますが、何よりもエネルギー分野での世界一の地位を守り抜くという「Energy Dominance」という言葉に全てが集約されていると思います。従来、米国はエネルギーを他国からの供給に頼らず、自国内で調達することにより、経済的にも政治的にも自立した国を目指すことを国是としており、これは「Energy Independence」という言葉で表されてきました。それが2010年代に入り、シェール革命が起こり、シェールガス、シェールオイルが米国国内で大規模に発見、生産された結果、2016年以降、ガス・原油ともその生産量は世界一の水準となっていることは皆さんもご承知の通りです。

そしてこの結果として、原油・ガスの国内消費分の不足を輸入で補っていた米国が、逆にエネルギー資源の輸出国として登場してくるわけです。このため、従来のサウジアラビアやロシア、イランといった伝統的なエネルギー輸出国との競争が始まっています。同時に、これらの伝統的なエネルギー資源輸出国とは、かなり目立つ形で政治的対立が始まっています。

ここから、本稿のテーマであるロシアの話に移ります。エネルギー輸出国として、ロシアはすでに欧州向けにガスパイプラインを敷設していて、液化天然ガス(LNG)を輸出する米国よりも、立場的には優位にいるわけです。しかし、米国産LNGは価格の安さを武器に、もともとロシアとの取引を好まないバルト3国やポーランドに食い込み始めています。ロシアという国は、ソ連時代から自国産商品が海外と競争するという経験を持っておらず、米国とのエネルギー輸出競争は、経済における初めての競争体験です。パイプライン経由で販売される天然ガスとタンカーで輸送されるLNGはそもそも別物であるにもかかわらず、ロシアは過剰とも言えるような反応を輸出先である西欧に対して示しています。そんな例を見てみましょう。

その一つは、2014年に開催されたソチ冬季オリンピック・パラリンピック(ソチオリンピック)。この大会は、ロシアが「普通の国・信頼できる国」であることを西側諸国に認めてもらうための一里塚でした。500億ドル(5兆5000億円)という巨額の投資がなされたのですが、これは2020年の東京オリンピック・パラリンピックの開催費予想3兆円を超えて、近代オリンピック史上最大級とのことです。そして、その大部分を世界最大の天然ガス独占半国営企業、ガスプロムが負担しています。
筆者は、ソチオリンピック開催前年の2013年にソチを訪れ、建設工事中の施設を見学しましたが、ロシア、モスクワ市、そしてガスプロムの社旗の3本旗がセットとなって、ソチの空にはためいていました。実はこのソチオリンピックこそ、ロシア産ガスを欧州に購入してもらうため、ガスプロムがロシア政府と作り上げた大戦略だったのです。

成功裏に終わるかと思われたソチオリンピックは、閉幕直前にウクライナで騒乱が大規模化し、突然ロシアの立場は暗転してしまいます。その後、西側による経済制裁、それに呼応したロシア側の禁輸措置など、2014年は予想もつかない反ロ一色の世界情勢となりました。その上、ウクライナの親ロシア政権は転覆し、ウクライナ・ロシア両国は本格的に対峙(たいじ)するようになりました。
ウクライナ経由で欧州に向けロシア産ガスを届けるパイプラインも、再三、再四にわたり輸送が停止され、欧州諸国にガスを供給できない事態が頻繁に発生しました。このままではロシア産ガスの輸出が危ないと考えたロシア政府は、ウクライナを経由しないパイプラインの敷設に入り、北側ではフィンランド湾を経由しドイツに至る「ノルドストリーム2」、南側では黒海を経由し、トルコに至る「ブルーストリーム」が建設されました。
一方、スポーツ界においてはFIFA・W杯が2018年にロシアで行われることが決まっていました。ロシア政府とガスプロムは再び巨額の投資をこのFIFA・W杯ロシア大会に向けて行い、欧州で人気の高いサッカーというスポーツの祭典の主舞台になることで、名誉挽回を図りました。このFIFA・W杯ロシア大会に使われた経費総額は150億ドル、2020年東京オリンピック・パラリンピックの総経費見積もりが当初最大で1兆6000億円といわれていましたので、ほぼ同規模のイベントと考えてよいと思います。

ソチオリンピック、FIFA・W杯ロシア大会という二大スポーツイベントを終えた今、ロシア社会はどのように変わったのでしょうか。ガスプロムやロシア政府が意図した西欧社会との融和は進んだのでしょうか。筆者はその点において、非常に大きな効果を感じています。

まず、ロシアをそれまで知らなかった世界の人々が数多くロシアを訪れ、また外国人とのコンタクトを持ったこともなかったロシア人が外国人と話をした、という事実。これだけでも「外国人を見たらスパイと思え」というソ連時代の教育を受けた世代が残るロシアでは、奇跡的な変化です。今回のFIFA・W杯ロシア大会だけで、1万人を超える日本人がロシアを訪れたといいます。これまでのFIFA・W杯をサッカージャーナリストとしてずっと取材してきた筆者の友人は「今後、W杯はずっとロシアで開催してもらうわけにはいかないのかな」とまで、ロシアでの取材活動を高く評価しています。なにせ、取材証があれば、ゲームの行われる各都市内での交通費やモスクワから試合の行われる都市までのロシア国営鉄道の運賃は無料、また取材においても安全は十分確保されていて、南米などで体験した危険は一切なし、人々も温かく、こんな良い場所は滅多にない、という褒めようでした。

そして、そのような好印象を外国人に植え付けたのは、総勢1万7000人といわれるボランティアの人々でした。このボランティアは2016年12月末に募集が締め切られ、その後全国15カ所のW杯センターで研修を受けつつ、2017年6月にはW杯のプレゲームと位置付けられるFIFA コンフェデレーションズカップロシア大会でボランティアを実習、翌年の本番に備えた人々でした。FIFA・W杯ロシア大会期間中にモスクワで、ボランティア中の青年たちと話をすると、ボランティア専門家というか、大学は卒業しているものの、特に固定した職業には就かず、短期間の仕事を繰り返しながらボランティアの募集があると応募して参加するという、フリーランスのような人たちが目立ちました。ロシアにはソ連時代から、決して社会の正面には立たないものの、その奥には芸術家や発明家といった自由業の人たちが結構たくさんいました。今や、そのような階層が高度な教育を受け、第2、第3外国語を身に付けて、ボランティア専門家として社会の前面に出てきた、そんな印象を受けました。

石油・ガスといったエネルギー産業は、ロシア経済の6割を占める大産業ではありますが、製造業に比べ決して労働力吸収の多い産業ではありません。そのため、高等教育を受け、国家の経済状況は悪くなくとも、やりたい仕事がない、という状況が若い人たちの不満になっています。これをうまく利用しているのが大イベントにおけるボランティアであるというように筆者には見えるのです。ある女性ボランティアに、FIFA・W杯ロシア大会終了後の身の振り方を聞いたところ「2019年はフランスでFIFA 女子W杯があるので、早めにフランスに移動し、ボランティアに応募するつもり」とのことでした。

知的で国際感覚を持ち、海外生活を厭わない青年がロシアを飛び出して、世界で実力を試しながら生きるべき国を探す。こんな生き方が、今や当たり前のように受け入れられるロシアになってきたように感じられます。何度も繰り返すようですが、このようなロシア社会の変革をもたらしたのは、エネルギー資源を西欧に売って、米国に対抗していかねばならないガスプロムの戦略です。それがスポーツ投資という形を取り、そこからボランティアが大量に育成された、ということです。「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいな話ですが、トランプ大統領の米国の今後の動き次第では、西欧を身近に感じる青年たちが国外脱出を図り、教養ある数多くのロシア人青年が世界の産業を変えていく、という展開も出てくる可能性はあるのではないかと思っています。

[執筆者]菅原 信夫(有限会社スガハラアソシエーツ代表取締役

(※この記事は、三菱UFJ銀行グループが海外の日系企業の駐在員向けに発信しているウェブサイトMUFG BizBuddyに2018年11月20日日付で掲載されたものです)


Comments are closed.

Back to Top ↑