118.ロシアゆかりの街、函館で今「焼きピロシキ」が熱い-倉田 有佳

ロシア国旗

概要

ロシアと地理的に近く、古くから交流も盛んな函館で、今「焼きピロシキ」が熱い。ロシアとの歴史的、文化的な結び付きが強い函館の特徴を踏まえ、国(厚生労働省)の地方自治体に対する委託事業「はこだて雇用創造推進協議会」の「実践型地域雇用創造事業」で開発された商品ですが「食」の領域にとどまらず、さまざまな分野に波及効果をもたらしています。

ピロシキ(Пирожки)とは、小麦粉を練った生地で具を中に包み込んで焼いたり揚げたりするロシアの菓子パンの一種で、具がキャベツ、肉、じゃがいもといった惣菜系のものから、リンゴなどの甘いデザート系のものまであります。家庭で作られるだけでなく、古くから街の広場や市場、街角や路地でも売られていました。ソ連時代の男女共働き社会では、多忙な母親からは手間のかかる料理と敬遠され、代わりにおばあちゃんの家で食べるもの、あるいは学食や職場のカフェ、売店で買って食べる手軽な軽食として定着していきました。最近ではモスクワやサンクトペテルブルクなどの大都市にピロシキ専門店も現れ、具材の種類、形は多様化しているようです。

日本で最初にピロシキを食べた日本人は、長崎の役人と通訳だったと考えられます。ゴンチャロフ著『日本渡航記』には、1853年に日本との通商・和親条約締結のため長崎を訪れたロシアの使節プチャーチン提督が、軍艦「パルラーダ号」の艦内で日本の役人をピロシキでもてなしたことが触れられています。「ピロシキ」は「ジャム饅頭」「肉饅頭(ルビで「ピロシキ」)」と、日本人にもなじみのある「饅頭」に例えられている点が興味深いといえます。

日露和親条約が結ばれ、1858年に函館に初代駐日ロシア領事館が開設されます。この時、函館港に寄航するロシア海軍の治療や保養のためにロシア病院が建てられ、そこにパン焼き窯が作られました。病院は日本人の患者も受け入れ、入院患者にはロシア人同様の病人食が出されました。その中にはパンが含まれていたことがわかっています(新島襄著『函楯紀行』)。ロシア外務省の訓令には、日本人との友好関係を築くことが含まれており、ゴシケーヴィチ領事は着任した最初の年のクリスマス(ヨールカ祭)に、箱館奉行所の役人や子どもたちを招き交流しました。こうした機会にピロシキがふるまわれた可能性は十分考えられますが、それを示す文書は残されていません。

20世紀に入ると、ロシア極東から移住した旧教徒(古儀式派)と呼ばれる人たちが函館郊外で暮らすようになります。自家製のパンを籠や木の箱に入れ、街まで売りに行ったことが当時の新聞からわかります。甘いパンは北海道庁立函館商業学校の学生がお得意様で、黒パンの方は、味はともかくとして、売り子のロシア娘に同情した人たちが常連客となっていました。ただし、その人気は長くは続かなかったようです。また、これとほぼ同じ頃、ロシア革命を逃れて函館に来た亡命ロシア人(白系ロシア人)の中には、市中心部で軽食・喫茶店を開く人たちもいました。ロシア人からパンを買う、いただく、交換するなどの記憶や思い出は、今なお函館市民の間で語り継がれています。

20世紀前半の函館は北洋漁業の基地でした。鮭の豊富なカムチャツカの漁場に大量の日本人が向かい、数百人ものロシア人漁夫を乗せた船が、ウラジオストクとカムチャツカ間を往来する途中函館に寄港しました。函館の街はロシア人で大いに賑わい、ロシア語が街にあふれました。当時の函館にとってロシア(革命後はソ連)は重要な経済パートナーであり、ロシア人は身近な隣人でした。

近年は、函館市と姉妹都市提携しているロシア極東のウラジオストク市(1992年締結)やユジノサハリンスク市(1997年締結)との交流が中心になり、1994年にはウラジオストクに本学を置くロシア極東連邦総合大学函館校が開校しました。小規模ながらも、全国各地からロシア語・ロシアについて学ぼうと志す学生が函館に集まってきています。

さて、「焼きピロシキ」が函館に広まったのは2年ほど前からです。「はこだて雇用創造推進協議会」の「実践型地域雇用創造事業」の枠内で「ヒトを呼び,モノを作る」~函館ブランド確立による雇用創出・拡大プロジェクト事業として商品開発が始まり、2017年12月から市内の店舗で販売が開始されました。同推進協議会は、国(厚生労働省)の地方自治体に対する委託事業で、函館市、北海道渡島総合振興局、函館商工会議所、一般社団法人函館国際観光コンベンション協会、公立はこだて未来大学など7団体で構成され、函館市経済部長が代表に就任し、函館市経済部に事務局が置かれました。

そこで今回、筆者は函館市経済部を訪ね、「焼きピロシキ」誕生の経緯や市の評価について話を聞かせていただきました。その結果、以下のようなことがわかりました。協議会では「焼きピロシキ」の開発以前にも「函館夜景クッキー」や「函館さきいかチョコレート」(さきいか(函館こがね)をチョコレートでコーティングしたもの)などを開発・商品化しました。しかし、製造には新たな設備投資が必要だったため、開発に協力した事業者以外、新規事業者に広がっていくまでには至りませんでした。これに対して「焼きピロシキ」は、専用の製造ラインやパッケージなどは必要とせず、もとよりピロシキ(ただし「揚げピロシキ」)がパン屋のメニューの一つだったこともあり、店の工夫次第でオリジナルピロシキが生まれる可能性がありました。取り組みやすいメニューだったことがよかったようです。

今回は函館の歴史や文化を前面に出し、地元食材はプラスアルファとしました。協力事業者には「まるたま小屋」[筆者:2005年4月に市西部地区の古民家を改修してオープンしたピロシキ専門店]と「キングベーク」[筆者:1929年創業の市内有数の老舗製パン店]の2社になってもらい、試作品を作り「2種類以上のスパイスを使うこと、地元(道南の)食材を使うこと」を共通ルールとすることが決まりました。函館市内のパン屋の数は、推定約40(最新の国勢調査の結果から「菓子・パン小売業」は188事業所で、「函館・パン」でタウンページを検索すると38店舗)。このうち6社9店舗が参加したため、参加率は約4分の1ということになり、まずまずの参加率だと市では捉えています。協議会では、商品化した6品の中で「焼きピロシキ」が最も成功した商品であると考えているようです。

「はこだて雇用創造推進協議会」の直接経費は2億7876万7000円(平成27年7月~平成30年3月までの合計)。うち「焼きピロシキ」への支出は67万4234円で、その内訳は、店先に置く大小ののぼり(写真参照)などの「消耗品費」が14万7096円。リーフレットやチラシといった「印刷費」が10万9512円、ロゴデザインを作るための函館デザイン協議会への「委託費」が24万8832円、共通レシピを作るための試作品にかかる「原材料費」が6万8354円、試作品を完成させた事業者[筆者:上述の2社]に対する「協力謝金」が10万440円となっています。

はこだて焼きピロシキののぼり(筆者撮影)

「ソユーズ」のリーフレット。「はこだてピロシキ史」やロシアゆかりの場所が紹介されている

函館は年間500万人もの観光客が訪れる国際観光都市で、函館山からの「夜景」、塩ラーメン、海鮮丼が名物となっていますが、函館市ではそれらに代わる新しい食の魅力を模索していました。まさにそのような時、地元食材と函館とロシアの歴史を加えた「焼きピロシキ」が生まれました。

旅行業界からも注目されており、2019年4月からは東日本旅客鉄道(JR東日本)の「ワンデー函館」に「はこだて焼きピロシキクーポン」が加わりました。同年9月30日でいったん終了となりましたが、JR東日本では今後も続けるようです。「焼きピロシキ」は、今や函館の「新ご当地グルメ」となっています。

 

話題性に富み、市内の各種イベントに参加することも多い「焼きピロシキ」は、当初から地元紙やテレビで取り上げられ、短期間でその知名度を高めていきました。事業自体は2018年3月末に終了しましたが、その後、各事業者の発意で「函館焼きピロシキ協同組合(「ソユーズはこだて焼きピロシキ」。以下「ソユーズ」と略す)」が結成されます。これまで同様の活動を継続することになりますが「スパイスの使用」というルールは取り払われ「道南食材を使うこと」という条件が残り、これに「生地と具の割合を1対1とすること」が新たに加わりました。この新ルールは「ソユーズ」代表となった「まるたま小屋」店長の北見伸子さんのピロシキへのこだわりから生まれたものです。つまり、ピロシキは1個食べればそれだけで満足できる「ミール(食事)」である、との考えに基づいているそうです。

「ソユーズ」は新たに1社が加わったことで計7社9店舗となり、それぞれの店がこだわりの「焼きピロシキ」を販売しています。8種類も提供しているのは「まるたま小屋」だけで、あとの店では、1、2種類の「焼きピロシキ」を常に絶やさぬよう、努力しています。値段付けは各店の裁量に任されているそうですが、1個180円から300円と、若者でも手軽に買える値段に設定されています。

「ソユーズ」が主催者となり手掛けた最初のイベントは、2019年3月に開催された「ピロシキ博2019」です。会場は、同年創業140年を迎えた函館の老舗レストラン「五島軒」で、ここの初代料理長五島英吉は、ニコライ堂(正式名称は東京復活大聖堂教会)の名で親しまれているニコライ(当時は在函館ロシア領事館付属聖堂の司祭)からロシア料理を教わったという魅力あふれるエピソードまで付いています。

「焼きピロシキ」をけん引する「まるたま小屋」、そして「ソユーズ」の構成員である「手作りパンの家 こすもす」の店主に共通するのは、ロシア料理店「カチューシャ」のピロシキに感動したという経験です。1979年に市内で開業した「カチューシャ」の店主和子さんは、オホーツク出身のロシア人を祖母に持ち、当時は家庭用オーブンなどなく「蓋付きの鉄のフライパンにピロシキを並べ、石炭ストーブの中に入れて焼いていた。揚げたピロシキは食べたことがない」と回想します。残念ながら諸事情により和子さんの店は閉店しましたが、亡命ロシア人の祖母が伝えた味と感動は、現在も函館で生きていると言ってよいでしょう。

最後になりますが、函館は「なんとなくロシアに親しみを感じる人が多い」と今なお言われ続けている街です。こうした歴史的風土の中、「ロシア」をキーワードに「焼きピロシキ」が生まれたわけですが、市内の高校生や大学生が自由な発想でオリジナルレシピを開発し、完成品を各種イベントで自ら売るなど「焼きピロシキ」はマーケティングや地域学を学ぶ手段としても活用されています。地域おこしや新たな観光資源の域を超え、思わぬ波及効果を生んでいる「焼きピロシキ」の可能性は未知数で、そこから目が離せません。

[執筆者]倉田 有佳(ロシア極東連邦総合大学函館校教授)

(※この記事は、三菱UFJ銀行グループが海外の日系企業の駐在員向けに発信しているウェブサイトMUFG BizBuddyに2019年11月6日付で掲載されたものです)

ユーラシア研究所レポート  ISSN 2435-3205

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