132.ロシアにおける「最適化」医療政策下での新型コロナとの闘い-広岡直子

ロシア国旗

新型コロナに対する医療政策は他国と同様日々更新され、またその全体的な評価は今後にゆだねられるべきであるが、これまでの主に医療従事者に対する施策の一部をここで示しておくことは、何かしらの意味があることかもしれない。

中国の武漢で新型コロナが発生したと報道された直後のロシア政府の対応は素早かった。日本がクルーズ船に苦慮していたのとは対照的に、すぐに極東の国境を封鎖したロシアの初期対応は成功していたように見えた。ロシアの人々の新型コロナに対する自国評価も当初は高かった。しかし、アジアへの対応とは異なって、より頻繁であったヨーロッパとの人の往来を軽視していたこともあり、結局感染は他の国々と同様瞬時に拡大していった1

「ヴェドモスチ」紙によると、プーチン大統領のトーンが変わったのが、モスクワ郊外の「コムナルカ」地区に設営したコロナ患者受け入れの特別病院を訪問し、マスクなしで主任医師と会話した1週間後にこの医師がコロナ陽性と判明したときであるという。当初3月28日から1週間の予定であった緊急措置を、4月2日に4月末日まで延長すると発表があった。

WHOによれば、一日のロシアの感染者数は5月初旬に1万人を超えたが、その後徐々に下降し8月末4,700人前後になってから再び上昇に転じた。10月初めには10,000人、11月20,000人、12月下旬には約30,000人と増加を続け、その後1月20日現在21,000人と下降傾向を見せている2。公式の死者数は同現在67,220人と報告されているが、12月4日付「リア・ノーヴォスチ」紙上で、保健担当副首相ゴーリコワが死者数に関する統計上の不備を事実上認めている3

モスクワ市長によると、2020年10月19日付でモスクワ市には新型コロナ用に15,000床準備されていたが4、それでも急激な感染者数に追いつかなかった。その多くが展示場や公園、ショッピングモール、国立大学内の敷地などに臨時設営された。12月4日ゴーリコワ副首相が発表したところによれば、コロナ病床のうち国全体では75.9パーセント、ペテルブルク市、セヴァストーポリ、スモレンスク、オリョール州では90パーセント以上がすでにふさがっていた5。12月の一日当たり感染者数は25,000人から30,000人近くを維持しており、2021年1月20日現在もひっ迫した状況が続いているとみられる。

すでに2020年3月下旬、ロシア人の新型コロナに対する悲観論は広がりを見せていた。民間の世論調査機関であるレヴァダセンターによると、ロシアではこの流行は避けられないと48パーセントの人が答えている6

継続された医療政策の「最適化」の大きなつけが人々の懸念の根底にあるのだが、行政当局はその「つけ」を所与の前提条件としつつ、どのように新型コロナに対応させていたのであろうか。

1.全ての医療人員資源の動員を前提にした準備教育

保健省令第198号(2020年3月19日付、3月27日一部改正)によって、新型コロナに対するオンライン学習が、高等・中等教育を受けた全分野の医療従事者に義務付けられた7。医師らに定期的に義務付けられている継続教育の一環でもある8

まず二つのモジュール「コヴィッド19―肺炎と肺のウィルス状況(非感染症病院の医師の戦術)」「往診9のプライマリー医療と衛生における新型コロナ感染の診察・治療、予防」が義務付けられたのだが、保健省大臣のアドヴァイザーによると、これらはすべて非感染症専門の医療者向けであり、モスクワ市の保健公共評議会のメンバーは「感染症の非専門家がコロナ患者を助けるオプションを除外することは不可能」であり「専門家が決定的な役割を果たさない状況が起こるだろう」。したがって保健省は「医療界全体がコロナ患者に協力する準備をする必要があると仮定している」と述べていることからも、保健省は早くからパンデミックを意識して感染症専門家の枠を超え、すべての医療従事者が新型コロナに対処可能とするための準備をしていたということである10

2.医療人員の統合登録

これに先んじて、保健省は、全ての国の医師と看護師を政府のサイトに統合登録するよう医療機関の長に指示した。全体としての医療人員ソースがどこにどれほどあるかを明確にするために必要な措置であった11

3.金銭的インセンティヴ

2020年3月17日プーチン大統領は新型コロナウィルスとの闘いに関与する医師を支援するための措置を準備するよう政府に指示した。この時はまだモスクワ市だけが主戦場であったため、モスクワ市副市長のラコワは、彼らは割増金を受け取ると伝えている。医師は70,000ルーブリ、中等医療従事者(フェリシェール12や看護師など)は50,000ルーブリ、初等医療従事者(など)は30,000ルーブリで、モスクワ市の診療所の巡回医療13に携わる(研修中の)医局員(オルディナートル)は90,000ルーブリを受け取ることになっていた14

ただし、実際には賃金支払いが滞っていたため、プーチンが部下にオンライン会議でこの状況を「厳しく叱責している」模様が一斉に報道された15

4.年金のインセンティヴ

2020年5月29日の労働省発表によると、コロナ医療関連に携わった医療従事者には、治療期間中、年金受給のための労働日1日を3日とカウントするという。そもそも医療従事者の年金は有利になっているが、さらに年金のメリットを付与して、コロナ医療勤務に人員を促す措置である16

5.医学生の動員

2020年4月24日モスクワ市長ソビャーニンは4-5年生の医学生を新型コロナ患者の治療病院で働かせるための「指令書(ナプラヴレーニエ)」を出す指令(プリカース)をロシア首相ミシュースチンに求めた。「自由な人員はない。別の地区から移ってもらうなどとは無分別なことだ。彼ら(学生)には十分な知識があり、そして彼らがこの職業を選んだのである。実践的な医療を繰り返し見学することができる。」と述べた。保健相のムラシコは「学生はすでにボランティアとして働いている。これを、職業的な実践という形式に変えることが必要かもしれない。審議の準備はできている」と述べた。この三日後、保健省と文科省による指令「コロナ感染症との闘いの環境下での高等医療教育プログラムに関する学生の実践的訓練編成」が出され、大学長に対して学生の教育プログラムの変更を命じ、学生に「医療人員の任務の補充」として労働契約を結ばせることを義務付けた。5月1日、医学部の上級生はこの指令によりコロナ患者の病院に派遣された。

しかし、すでに3月30日プーチンは連邦管区全権代表との会議で、中等医療人員の供給の重要性とその補充を医学生とインターン(プラクチカーント)で行うことについて言明している。4月6日保健省は、大学医学部教育の3年間を過ぎたもの、医療カレッジ17の卒業学年の学生に対して、コロナ患者の病院で働くことを許可し、その際に36時間の特別講座を受講した後に中等医療者として働くことができるという指令を出した。住民の医療相談一般、自己隔離している住民への食糧や薬剤などの配達を含む医療相談対応を行うのだが、ロシアではこれらが「伝統的な」措置であるという。

モスクワではセーチノフ名称モスクワ第一国立医科大学(セーチノフ大学)18の学生に対して、個人の希望ではなく医療機関の都合で派遣先が決められること、この実践に参加しない学生に対しては単位未履修となることが通達された。加えて、学生にグーグルフォームを通して現在の所在地を申告するよう求めた。学生は、どこへ派遣されるか自分ではわからない。「一般の病院であっても、すでにウィルスに汚染されている場合、マスクしかないため、コロナ病院のレッドゾーンよりもかえって危険だ。」と懸念を表明し、またコロナ病院で働く場合、支払いの追加があるはずだが我々学生にはどんな金額が賦与されるか聞いておらず信じられないとの声があがった。もっと一般的には「なぜ我々がそのような実践に出されるのか。」という怒りである。たとえば歯科専攻の学生は、「自分の専門で義務を果たさず人々の役に立てないならば恥ずかしい。でも我々の政府が自分の義務を果たさないために、我々にそれを要求するのは別のことだ」と述べた。「実践」といっても中等医療従事者のマンパワーとして働くのであり、自分たちの専門の「実践教育」とはなっていない。
この指令より前、発展途上国からの留学生が多いロシア民族友好大学の医学部では500人以上(19の外国からの学生が含まれている)の学生たちが、ボランティアとしてロシアの30の医療機関で前面にたち、レッドゾーンでも若干名がそれぞれ働いていた19

6. 罹患した医療人員への追加的保険金支払い

2020年5月7日コロナ治療に関与している医療人員や救急車の運転手などに対して、罹患した場合に支払われる通常の社会保険フォンドの金額に加えて、追加的な保険金一時支払いの指令にプーチン大統領が署名したと報道された。すでに戦争時の軍人と医療者が同じ扱いになると「コメルサント」紙は4月17日に論じていた。死亡時には270万ルーブリ、障害が生じた場合には程度に応じて68.8万、130万、200万ルーブリ、障害が残らなかったが罹患したものには6.88万ルーブリが支給される20

帝政時代からロシアで頻繁におこっていたパンデミックでは、医師の免許を持つ人間は、たとえば作家のチェーホフであっても、国家の召集に応じて指令により指定された場所で奉職する義務があった。その後のソ連でも同様の措置が継続された。それがロシアの伝統であり、自ら医療を職業に選択したのであれば、医師の誓いをしていない学生であっても、国家の要請に従うのは当然である、という現政権の論理である。

ロシアでも、第一波のときに日本以上に防護服や使い捨ての衛生防護用品が圧倒的に不足していた。報道では度々、手製の布マスクに手術用のヘアキャップだけでコロナ患者を治療している地方病院の様子が映し出された。学生たちは事実上選択の余地なく国家の指令によって、不足する中等医療者として狩りだされる。まさに医療従事者や医学生らの人権を無視したこれらの措置こそが、医師を含むロシアのすべての医療従事者不足を生み、様々なインセンティヴを用いても一時的な効果しか生み出さない根本原因である。

政権が約束したインセンティヴの支払いも滞っていた。連邦保健監察局は6月末に死亡した医療者を489人と発表していたが、保健省が認めたのは40人、罹患した医療者は14,000人であった。しかし「ノーヴァヤ・ガゼータ」紙の記事が出ると数値が修正された。その結果、9月23日時点で死亡者を258人、罹患者を71,000人と保健省は報告している。しかし、医師がグーグルフォームに立ち上げたロシア医療者の新型コロナによる犠牲者の「記憶名簿」によると、同日付で死者は685人となっている21

医療従事者たちは、抗議の声を各地であげている。プーチン大統領が約束したインセンティヴは、実際には全く支払われていないか部分的にしか支払われていない。これに対する反発は強く、医療労働者の組合「行動」の「新型コロナに対する支払いを!」などの抗議には、ウドムルチの都市やマグニトゴルスク、ソチ、ウラジーミル、ペテルブルク、アーストラハニの各市、モスクワ州などが参加した。また、そもそも法令では診療所の医療従事者は除外となっているが、実際には診療所でも判明前の感染者を診療するため、医療従事者の罹患者が頻発していることに対する不満と将来の不安が広がっていた22

また、国民からはPCR検査についての強い不満が出ている。感染者の家族が無料検査を受けようとすると、定められた診療所では2-3週間待たなければならないため、結果的に民間のクリニックに行かざるをえず(1回につき費用は約2,000ルーブリといわれている)、しかもその後2回検査に合格しないと隔離が解除されないため、個人負担が非常に大きい。モスクワ市だけは3日以内に無料検査ができるが、それ以外の地域は放置されている模様である。消費者連盟は、その費用を国庫で補償するよう、ロシア連邦安全保障会議副議長で新型コロナ担当の責任者であるメドベージェフ(前首相)と衛生医師長のポポワ宛てに要求したが、2020年11月2日時点での返答はない23
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注釈
1 公式にロシアに初の新型コロナ患者が現れたのは2020年3月1日、そして4月9日はすでに10,131人を数え、死者76人となったhttps://www.vedomosti.ru/society/articles/2020/04/09/827471-gotovo-rossiiskoe

2 https://covid19.who.int/region/euro/country/ru なお、ロシア政府による「ストップコロナウィルス・サイト(https://xn--80aesfpebagmfblc0a.xn--p1ai/)」がある。

3 https://ria.ru/20201204/statistika-1587731366.html 

4 https://www.mos.ru/mayor/themes/18299/6875050/

5 https://tass.ru/obschestvo/10175983 

6 https://www.levada.ru/2020/03/26/pandemiya-koronavirusa/

7 https://edu.rosminzdrav.ru/covid-19/ 3月20日に発表されて、23日までに全員が聴講を義務付けられた。その後も次々に新たなモジュールがアップされている。

8 医師の継続教育については、松本かおり「日ロ医療協力とロシアにおける医師の社会的地位の改善(1)」、ユーラシア研究所レポートhttp://yuken-jp.com/report/2017/05/15/doc/ (2017年5月15日web公開)を参照。

9 帝政期・ソヴィエト期からの伝統で、ロシアでは医師に往診を頼むことが多い。

10 https://www.rbc.ru/society/23/03/2020/5e78b2d49a794743811a3833

11 Ibid.

12 緊急的な措置や医師の指示を受けて治療が可能な資格者。詳しくは広岡直子「国家・医師・農民――革命前ロシアにおける農村医療・保健史序説」野部公一・崔在東編『20世紀ロシアの農民世界』日本経済評論社、2012年所収、72-75頁。

13 一般的な往診とは異なり、医療設備が一定程度しつらえられたトレーラーを巡回させてその車内で医療行為を行うことである。医療「最適化」のため、地方の診療所(「常駐制度」)撤廃の後、「巡回制度」がとって代わった地域が多くなっている。

14 Ibid.

15 https://ria.ru/20200515/1571501255.html ニュース動画はhttps://www.m24.ru/videos/vlast/15052020/240877

5月11日に医療従事者に支払われていた実際の賃金は約束した半分以下となっており、プーチン大統領は5月15日までに各知事に問題を解決するよう強く迫る映像が流れた。このように部下を強く叱責する自身の姿を公表し印象付ける方法はプーチンの確立された統治スタイルとなっている。ネムツォフ射殺事件があった2015年、国民に不満の高かった電車の廃線問題をめぐってプーチンが行った「公開のむち打ち刑」は、すでに見慣れた「国民的スポーツ」ショーであると論じられている。広岡直子「郊外電車(エレクトリーチカ)の廃止をめぐって――今、ロシア国内では何が起こっているのか」「ロシア・ユーラシアの経済と社会」、984号所収、2015年5月、ユーラシア研究所、32-48頁を参照。

16 https://mintrud.gov.ru/pensions/54

17 かつては、中等医療者のための教育を行う専門学校であったが、近年「医療カレッジ」という名称に変更している。普通中等教育修了者(11年)には2年10カ月、義務教育修了者(9年)には3年10カ月の教育期間がある。

18 1758年設立のロシアで最も古い医科大学で保健省直属である。モスクワ大学医学部というのは、この大学のことである。ロシア革命後にモスクワに第二の国立大学医学部(ピロゴーフ大学、第二大学)ができたのでこのような名称であらわす。

19 https://www.kommersant.ru/doc/4335133

20 https://www.kommersant.ru/doc/4323811;https://www.kommersant.ru/doc/4340064

21 https://novayagazeta.ru/news/2020/09/23/164453-minzdrav-posle-vyhoda-spetsvypuska-novoy-v-shest-raz-uvelichil-statistiku-po-kolichestvu-pogibshih-ot-covid-19-vrachey; https://www.kommersant.ru/doc/4400147

医療者のコロナ死の「記憶名簿」は https://sites.google.com/view/covid-memory/homeにある。衛生看護員、検査技師、救急車の運転手、小児科医など様々な医療従事者の名前、具体的な職種、年齢、住所などが記載されている。2021年1月20日現在1,033人である。

22 https://newizv.ru/news/society/14-10-2020/vserossiyskaya-aktsiya-medrabotnikov-pochemu-minzdravu-nechem-zaplatit-medikam;https://novayagazeta.ru/articles/2020/09/23/87201-bunt-v-ozhidanii-vtoroy-volny

23 https://iz.ru/1080618/evgeniia-pertceva/vne-biudzheta-pravilo-platu-za-testy-na-covid-predlozhili-vozmeshchat-iz-kazny ただし、ペテルブルク市では2021年1月1日から強制健康保険(OMS)からPCR検査の費用が支払われることが決定された。ペテルブルク市の場合、OMSの対象医療機関のうち40パーセントは民間である。詳細についてhttps://www.gov.spb.ru/press/governor/198911/

2021年1月20日脱稿

ユーラシア研究所レポートISSN 2435-3205

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