
2014年と2022年はどうつながっているのだろうか。現在有力な見方によれば、14年 に起きたことは22年を予示するものだったとされる。それはある程度までその通りで あり、14年と22年の間にいくつかの共通点や連続性があるのは確かである。だが、そ こには何の断絶も飛躍もなかったのだろうか。
この問題を考える際、多くの人はクレムリンの思惑に照準を合わせている。確かに 、現実政治においてはそれが最重要かもしれない。だが、管見の限り、確度の高い根 拠や内部情報はあまり多くない。ここでは、その問題はさておき、むしろ一般ロシア 国民の反応について考えてみたい。ウクライナ側から見た2014年についてはある程度 知られているが (1) 、(ロシア政府ならぬ)ロシア国民から見た2014年についてはあま り知られておらず、その点を課題としたい。
予め仮説的展望を述べるなら、2014年のクリミヤ併合も22年の開戦も国民の政権へ の支持率上昇をもたらし、挙国一致状況を生み出したかのようだが、そこには微妙な 温度差があった。14年の挙国一致がほぼ全面的なものだったのに対し、22年のそれは 「鈍い挙国一致」でしかなく、それが戦闘における士気の低さに反映したので はないか。以下では、この仮説について若干の推論を試みたい。
1 ロシアにおける世論
一般国民の反応を探るという課題を掲げたが、その作業は簡単なものではない。主な手がかりとしては世論調査データと選挙結果があるが、いずれも十分信頼性の高い ものということはできない。世論調査の信頼性、その解釈をめぐっては種々の議論が あるが、ごく大まかにいうなら、個々の具体的数字に関しては慎重に考える必要があ る一方、世論調査データが完全に無価値ということでもなく、特に同一機関による反 復調査は通時的変化を示すという点でそれなりの利用価値があると思われる。 同様のことは選挙結果についても言える。ロシアの選挙が十分自由かつ公正なもの ではなく、様々な操作をこうむっていることはよく指摘されるとおりだが、それでも 選挙における競争性が完全になくなったわけではなく、与野党の得票率や議席数の変 動は、留保付きながらも国民の政治への反応をある程度探る材料たり得ると考えられ る。 こういうわけで、国民の政権支持度について精密に考えるのは至難だが、各種デー タからごく大まかな流れを推測することができないわけではない。その推測が十分厳 密なものではないということを断わった上で、とりあえずの印象論を述べてみたい。プーチン政権は国民をがんじがらめに縛り付けるというほど高度の統制力を持って いるわけではなく、国民の政権支持度は時期による変動にさらされてきた。経済状況 が良好だった1990年代末から2000年代初頭にかけては高い支持率が保たれたが 、2004年の社会保障改革や08年以降の経済後退を契機に、支持率は趨勢的に下がり続 けた。ところが、13年まで低下し続けた支持率は14年に一挙に反転上昇して、挙国一致状況へと転じた。象徴的なのは、22年には戦争批判の声があちこちからあがったの に比して、14年にクリミヤ併合を批判する声はほとんど聞こえなかったという事実で ある。 2014年の情勢を象徴する例として、ゴルバチョフおよびナワリヌイをとりあげて考 えてみたい。ゴルバチョフの場合、プーチン政権初期には条件付きの政権支持ないし 是々非々論だったが、2012年のプーチン再登板後は明確に批判的になっていた(『ノ ーヴァヤ・ガゼータ』紙およびその編集長ムラトフの後ろ盾でもある) 。その一 方、彼は2014年「マイダン革命」に関してはEU、 NATO、アメリカ、ウクライナ政界に辛い評価を示し、またクリミヤがロシアに帰属するのは当然だとして、その併合 を支持した (2) 。
ナワリヌイについていうと、彼は通常プーチンの最も鋭い批判者として知られるが 、彼にはもともとナショナリズムへの傾斜があり、しかもそれは孤立した現象ではな かった。「統一ロシア」の一党優位が固まり、ヤーブロコや右派勢力同盟といった野 党が政治の世界でいうにたる役割を果たすことができなくなる状況の中で、反政府活 動家の中には大衆的支持獲得のためにナショナリストとの提携が必要だと考える「ナ ツ・デム派」 ―「民族」と「民主」をあわせた呼び名―が登場し、ナショナリスティッ クなシンボルのもとで極右勢力と共同行動をとったりしたが(「ロシアの行進」など ) 、ナワリヌイもこの流れのなかにあった(彼は当初ヤーブロコに属していたが、ナ ショナリズム路線を容認しないヤーブロコは2007年に彼を除名した) 。そして、 14年のクリミヤ併合時の彼の態度は、併合の手法は強引だったが既成事実となったか らにはそれを尊重すべきだというものであり、クリミヤはこれからもロシアの一部に とどまる、ロシア人とウクライナ人は同じ民族だ、というのが彼の考えだった (3) 。 ゴルバチョフとナワリヌイとでは大分違うし、また彼らを「一般国民」の代表とみ るわけにはいかない。ただとにかく、他の点では政権に批判的でありながらクリミヤ 併合を支持した例があるということは一種の象徴的な意味を持っており、彼ら以外に も、プーチン政権を支持するわけではないがクリミヤ併合は支持するという雰囲気が あったものと考えられる。その結果がほぼ完全に近い挙国一致状況だった。 このような状況と2022年との対比については後で立ち戻ることにして、14年に強固 な挙国一致が生じたことの背景について、歴史をさかのぼって考えてみたい。
2 ソ連時代末期のクリミヤ問題
もともとロシアでは、クリミヤはロシアに帰属するのが当然であり、1954年にロシ ア共和国からウクライナ共和国に移管されたのはフルシチョフの恣意的で不当な決定 によるという考えが広まっていた。この考えの当否はさておくとして、54年の移管決 定に明確な理由が示されなかったのは確かであり、ペレストロイカ期に言論が自由化 されると、クリミヤ住民の多数派をなすロシア語系住民の間で移管の不当性を指摘す る意見が広がり、その声はロシア共和国にも伝えられた。 もっとも、クリミヤの先住民はいうまでもなくクリミヤ=タタール人であって、ロ シア人でもウクライナ人でもない。かつてクリミヤ半島のみならず黒海北岸に広い勢力を誇ったクリミヤ=ハン国は18世紀末にロシア帝国に征服され、19世紀から20世紀 初頭にかけて大量のクリミヤ=タタール人がロシア帝国から流出して、トルコその他 の中東地域に移住した。その結果、20世紀初頭のクリミヤ半島では、住民中のクリ ミヤ=タタール人の割合は4分の1程度になっていた(クリミヤ=タタール人がクリミ ヤ住民中の少数派になったのはスターリンによる追放後のことだという俗説は間違い ) 。内戦期のクリミヤでは複雑な政治過程があったが、勝利を収めたボリシェヴィキ は「民族自決」の建前から、クリミヤ=タタール人が人口の少数派となっているこ の地域に「(ロシア共和国内の) 自治共和国」という地位を付与した(国家語はクリ ミヤ=タタール語とロシア語の双方とされた) 。 周知のように1944年にクリミヤ=タタール人は強制追放され、クリミヤ住民中にお けるその比率はいったんゼロとなった。1956年にいくつかの被追放民族が名誉回復さ れたときにクリミヤ=タタールはその対象にならなかったが、67年に遅ればせに名誉 回復され、それに伴って移動の自由も原則的には回復した。もっとも、複雑な行政手 続きの壁に阻まれて、実質上ほとんど帰還することができない状態が続いた。ペレス トロイカ期に入って徐々に帰還が増大したものの、89年の人口調査によれば、クリミ ヤ住民の民族別内訳はロシア人67%、ウクライナ人26%、ベラルーシ人2%に対し、 クリミヤ=タタール人は1.6%にとどまっていた(その後、帰還が増大して、州人口の 10%強になった (4)。民族的ウクライナ人やベラルーシ人でもロシア語を母語とす
る者が多いため、住民のうちロシア語を母語とする者は83%に及んだ(これは人口調 査での公式記録だが、現実の言語使用はこの数字が示す以上にロシア語優位だった) 。
ともかく現地住民の絶対多数はロシア語系住民であり、彼らはウクライナの言語
(1989年10月採択、90年1月から施行) や主権宣言採択(90年7月) を契機に、自分 たちの地位の不安定化を懸念するようになった。90年半ば頃から自治共和国という地 位の復活を求める声が高まり、91年1月の住民投票で「同盟条約の主体としての自治 共和国」という地位への移行が確認された。
なお、これはさしあたりウクライナ共和国の中の自治共和国ということであり、一 部で唱えられていた「ロシアへの移行」(復帰) 論はとられなかった。ソ連という大 枠が存在している間は「ウクライナの中の自治共和国」でも「ロシアの中の自治共和 国」でもソ連の中という点では同じであることから、「ロシアの中」か「ウクライナ の中」かという選択はとりあえず尖鋭化が避けられた。しかし、ウクライナ独立宣言 採択(8月24日) はこの前提を揺るがす意味を持った。これ以降、クリミヤではウク ライナからの独立論やロシアへの移行論が急速に高まった。 他方、ウクライナ独立宣言の直後に、ロシア大統領の報道官ヴォシチャノフは、「 独立する国とは国境調整の必要がある」と発言した。これはクリミヤおよびウクライ ナ東部への領土要求を含意しており、一大センセーションを巻き起こした。これ自体 はあまり紛糾させまいとする政治家間の合意によって、とりあえず不問に付された (1990年11月のロシア=ウクライナ条約における現行境界尊重の原則が再確認された ) が、それにしても対抗の底流は残った。後のロシア=ウクライナ対抗の種がこの時 点で既に蒔かれていたという事実は記憶に値する。
3 ソ連解体から「マイダン」前夜まで
ソ連解体後、1990年代前半を通して、クリミヤ現地ではウクライナからの独立論や「ロシアへの復帰」論が盛んに唱えられた。1991年9月のクリミヤ主権宣言を受けて、92年5月にはクリミヤの国家的自主性に関する宣言(独立宣言と解されることもある) が採択され、94年1月には独立論者のメシュコフが大統領に当選するなど、緊迫が高まった。ウクライナのクチマ政権はこうした現地の動きに対して強硬姿勢を示し、メシュコフは短期間で辞任に追い込まれた。96年のウクライナ憲法でクリミヤをウクライナ内の自治共和国とする妥協が成立して、対立はある程度やわらいだが、その後もキエフとクリミヤの間で種々の対抗が展開した。 クリミヤ現地におけるこのような動きは、ロシアの国内政治にも反映した。クリミヤはロシアに戻るべきだとする「愛国派」の主張はかなり強力で、政権への強い圧力となった。政権自身は、1990年のロシア=ウクライナ条約で現行境界尊重がうたわれていた経緯もあり、正面から「クリミヤ奪還」論を打ち出すことは避けたが、セヴァストポリを母港とする黒海艦隊の保持には、より大きな重要性が付与された。 曲折した交渉の末、1997年5月に黒海艦隊分割協定およびロシア=ウクライナ友好協力条約が調印され、国境の不可侵(クリミヤがウクライナ領であることの確認)、黒海艦隊の分割(ウクライナ18%、ロシア82%) 、ロシアは母港としてセヴァストポリを使う(当面20年間) ことに対し賃借料をウクライナに支払う、艦船の8割をとることの見返りも支払う、ウクライナからロシアに移送された核兵器についてもロシアが補償金を支払う、但しこれらの金額はウクライナの対露債務(主に石油・ガス料金) で相殺される、という形で妥協が成立した。 この時点で未決に残っていた国境画定は、2003年の条約(アゾフ海はロシアとウクライナの内海とし、両国の船はアゾフ海を自由に航行できるが、第三国の船は両国の許可を要すると規定) で決着し、その後も残っていたケルチ海峡問題は2012年に、ほぼウクライナの主張通りに境界が引かれることで決着した。ロシア議会が国境画定条約を批准したことは、クリミヤに関する領土問題の正式確定を意味した。こうして、クリミヤの帰属および黒海艦隊問題は「マイダン」前夜にいったん決着していた。4 「マイダン」の衝撃
2010年のウクライナ大統領選挙で当選したヤヌコヴィチは通常「親露派」と呼ばれるが、一貫してロシアのみに依存する政策をとっていたわけではなく、ロシアと西欧の双方との関係を良好に保とうとするのが当初の政策だった(なお、2010年選挙は全体として公正なものと西欧諸国からも認定されており、彼の当選は不正選挙に負うわけではない) 。しかし、世界的経済不況の中で国際対立が高まって、ロシアと EUのどちらをとるのかという選択が迫られる状況の中で、ロシア依存の姿勢が明確になった。直接的契機としては、 EUとの連合協定調印をヤヌコヴィチが取りやめにしたことが反政府運動を高揚させた。かねて指摘されていた政治腐敗がヤヌコヴィチのもとで一層深化していると見られたことも反政府気運に拍車をかけた。こうして、2013年末から14年初頭にかけて大衆的な反政府運動が展開された。いま見たような政権末期の状況を思えば、反政府運動の高揚自体は自然なことだったが、この時の政権と反政府運動の対決は時間を追うにつれて暴力的衝突の様相を濃くした。その間の事情はなお不明確な点が残っているが、政権側が強硬な弾圧策をとる一方、平和的な市民運動として始まった反政府運動の中に過激な暴力を持ち込む極右分子―「スヴォボダ(自由) 」や「右派セクター」など―が紛れ込むことで、暴力の応酬がエスカレートしたものとみられる。政府と野党の間で一旦は事態打開のための合意が成り立ったにもかかわらず、武装闘争派はこれを受け入れず、政府の重要施設を占拠した。混乱した情勢の中で、それ自体としては少数である極右が実勢以上の影響力を持ったと考えられる。 政府の腐敗を市民が追及して非暴力の大衆運動が高揚するのは民主主義の自然な生理だが、暴力の応酬のエスカレートの中で大統領が逃げ出して政権が倒れるのは、その枠を超えた事態であり、強くいえば「暴力革命」的様相を帯びたということになる(5) 。ともかく、この時点での政権交代は立憲的手続きに基づかない緊急措置という形をとった。「マイダン」が「暴力革命」的様相を帯びたことは、ロシア語系住民の多いクリミヤおよびドンバス2州の住民を刺激し、前者のロシアへの移行、後者における「人民共和国」樹立を引き起こした。これはそれまでの国家秩序の非立憲的な変更であり、ウクライナのみならず諸外国から強く非難された。もっとも、当事者たちからすれば、それに先だってキエフで非立憲的な暴力革命があったということが正当化根拠とされている。それをわれわれがそのまま受け入れてよいかは別問題だが、とにかく現地住民およびロシア国民の多くがそのような意識をいだいていたということは一応確認しておいてよい。 この時のクリミヤおよびドンバスにおける変動はモスクワの指示によるものと漠然と想定されることが多い。大筋としてそれを全面否定することはできないが、クリミヤ、ドンバスそれぞれの内部事情に関しては、単なる「モスクワの指令」だけで片付けるのではなく、もっと詳しく検討する必要がある。今なお不明な点が多く、私自身も十分通じているわけではないが、とにかくある程度考えてみたい (6) 。先に見たように、「マイダン」に先だつ時期にクリミヤの帰属問題も黒海艦隊問題もいったん決着していた。ところが、「マイダン」は、ロシアから見れば、キエフで暴力革命が起きて極右勢力が権力を握ったものと映り、それまでの協調関係の前提を覆すものと受けとめられた。黒海艦隊基地を含むクリミヤの戦略上の意義は非常に大きなものがあったから、モスクワは「マイダン」直後から目的意識的に関与し、短期間に兵力を送り込んで、セヴァストポリ軍港を制圧した。 もっとも、クリミヤ現地の政治エリートはモスクワの単なるカイライではなく、独自な政治過程を織りなしていた。もともとクリミヤには多数の政治勢力が存在していて、それらの間で複雑な駆け引きが重ねられていた。21世紀に入ってからは、地域党(ドンバスを拠点とするヤヌコヴィチ与党) が進出していたが、地域党員のうちでも、もとからクリミヤで活動していた人たちとドネツクから派遣されてきた人たちの間には微妙なズレがあった。ドネツクから派遣されてきた人たちはキエフとの交渉に期待を託したが、土着の政治家たちはむしろロシアの支援を仰ごうとした。2014年2月半ばには、キエフでの暴力的対決がクリミヤにも持ち込まれて、衝突事件の中で死傷者が出た。モスクワは当初、現地の状況を十分把握していなかったが、衝突の拡大した2月下旬に、現地エリートのうちの「ロシアへの復帰」派がモスクワに働きかけて介入を決断させた模様である。 政治エリートたちの動向とは別に、現地住民―その大多数を占めるロシア語系住民の間には、かねてより「ロシアへの復帰」論が根強く存在していた。もっとも、キエフとの関係が安定している間は「ウクライナの中での自治」が受け入れられており、マイダン直後においても、「もしウクライナが連邦化されるなら、その中での自治でよい」という考えもあった。3月にクリミヤで行なわれた住民投票は、「ウクライナの連邦化を前提したウクライナ内残留」と「ロシアへの領土帰属替え」のどちらを支持するかを問う形で行なわれ、前者は2.5%、後者は96.8%という結果になった。短期間に急遽実行された住民投票がどの程度公正に行なわれたかには疑問の余地があり、公式発表の数字にはある程度の水増しがあったと考えられるが、それにしてもロシアへの移行に賛成する意見が多数を占めていたことは確実である(この点、2022年9月下旬にウクライナ東南部4州で行なわれた住民投票とは状況を異にする)。ロシア軍がやってきたときも、現地で武力衝突や抵抗はなく、ロシアへの移行は平和裏に実現した(2月の暴力的衝突について先述したが、3月以降のプロセスは暴力を伴わなかった) 。5 ロシア国民の反応
クリミヤのロシアへの併合は国際法に違反した不法な領土拡大だとする見方が諸外国では一般的だが、ロシア国民―ここで「ロシア国民」とは、プーチン政権と必ずしも一体ではなく、2022年の戦争を支持しないような人々を含む―の受け止め方はそれとは異なっていた。 前述したように、もともとクリミヤはロシアに帰属するのが当然だという考えがロシアでは広まっていたし、当地の住民の大多数がロシア語系である以上ロシアに属するのが自然だという考え方も広く分かち持たれていた。それでも、ウクライナとロシアがそれほど厳しい対立関係にはなく、ウクライナの中でクリミヤの自治が尊重されているならウクライナに帰属したままでよいとする考えが大勢をなしたが、キエフで暴力革命が起き、ウクライナ政権が極右分子に握られた以上はクリミヤはロシアに戻るほかないという考え方は、広い範囲のロシア国民に受容された。クリミヤ編入が住民投票を経て平和的に実現したこともそうした考え方を強めた。これはプーチン政権の確固たる支持者たちだけではなく、もっと広い広がりを持っており、ほぼ全面的な挙国一致状況が生まれたことは前述した通りである。実際、この時期の政権支持率は8割を大きく超える驚異的な水準に達した。 このような高度の挙国一致状況は数年間持続したが、2018年頃から次第に掘り崩されだした。同年の年金改革を契機に、それまで高止まりしていた政権支持率は低下に転じ、その後も低下を続けた。21年秋の下院選挙における「統一ロシア」の後退もそうした情勢を反映していた。 このような背景に照らして考えるとき、今回の開戦の一つの背景として、国内情勢が思わしくないことへの政権の苛立ちと焦りがあり、14年の支持率急上昇の再現を狙ったのではないかと推測することができるように思われる。6 2022年―開戦への反応
2022年2月の開戦後、ロシアにおける政権支持率は上昇したが、それは14年ほどの力強さを持たなかったように見える。そのことを物語るのは、早い時期から諸方面で反戦・厭戦意識の表明が現われたという事実である。もっとも、正面切って戦争批判を表明するのは大きな勇気を要することである以上、それは量的には少数派のものでしかありえない。そうではあっても、そうした勇気ある少数派が公然と登場したということ自体が注目に値する。このことを14年と対比して考えるなら、14年にはクリミヤ併合はキエフにおける暴力革命からロシア語系住民を保護するための措置として肯定されると考えた人たちのうちから、今回の戦争は侵略的なものであって支持できないと考える人たちが出てきたと推測することができる。ゴルバチョフおよびナワリヌイがそれぞれの理由から2014年のクリミヤ併合を支持したことは前述したが、彼らはいずれも22年の戦争には批判的な態度を示した。全く別の例として、ポクロンスカヤ検事―もともとウクライナ人で、ウクライナ検察に勤めていた―は、14年にロシアに編入されたクリミヤ共和国の検事長に任命され、いわば「ロシア側の人間」となった。その彼女が22年の戦争に批判的態度をとったことは大きな注目を集めた。ここに挙げたのは、それぞれ全く異なった個別例だが、そうした個別例の背後には、類似の例がかなりの程度あったことが推測される。 もっとも、世論調査で戦争支持論が多数を占めているということは広く指摘されているとおりであり、正面切って戦争に批判的態度をとるのは、知識人や若者を別にすれば、あまり多くない。ただ、世論調査ではとりあえず「支持する」と回答しても、戦線ではやる気が出ないということは大いにありうる。現にロシア軍の士気の低さは広く指摘されているとおりであり、それがロシア軍苦戦の大きな要因となったものと考えられる。 このようなロシアの状況は、ウクライナでほぼ全面的な挙国一致状況が生じたのと好対照をなす。ウクライナでは、直前まで低下しつつあったゼレンスキー支持率が開戦を機に一挙に急上昇し、戦闘における士気も高く、ロシア軍の攻勢を各所で撃退した。 今般の戦争がどのようにして決断されたかは今なお謎だが、2014年における政権支持率急上昇を記憶している政権中枢には、この「成功体験」を繰り返したいという願望があったのではないか。14年と22年は類似しており、連続性があるというのが多くの部外者の見解だが、実はプーチンもまたそのような連続性に関する認識―実は誤認―に基づいて開戦を決断したのではないか。そして、その誤認はプーチン政権にとって極めて高くついたのではないか。ここに書いたのは、不十分な根拠に基づく推論に過ぎない。この仮説がどこまで裏付けられるかは今後の課題である (7) 。 注 *紙幅の関係で注記は最小限にとどめる。ペレストロイカ前後の時期のクリミヤについては、塩川伸明『国家の解体―ペレストロイカとソ連の最期』東京大学出版会、2021年の関係各所参照。 (1)マーシ・ショア『ウクライナの夜』慶応義塾大学出版会、2022年、A・グージ ョン『ウクライナ現代史』河出新書、2022年。 (2)ミハイル・ゴルバチョフ『わが生涯―ゴルバチョフ自伝』東京堂出版、2022年、 第14章。 (3)ヤン・マッティ・ドルバウム、モルヴァン・ラルーエ、ベン・ノーブル『ナワリ ヌイ ―プーチンがもっと も 恐 れ る 男 の 真 実』NHK出 版、2021年、101-112, 150-151頁。 (4)少数派とはいえ徐々に増大してきたクリミヤ=タタール人の動向は入り組んでお り、本稿で立ち入ることはできない。彼らは一枚岩ではなく複数の団体に分かれて、 複雑な相互関係を織りなしていた。他方、ウクライナ・ナショナリストは当初クリミ ヤに足場がなく、さしたる関心も払っていなかったが、ある時期以降、ロシア語系住 民への対抗上、クリミヤ=タタール人団体の急進派に働きかけて同盟関係を構築した 。それが全体の中でどういう位置を占めているかは今後の検討課題である。 (5)この「革命」の背後にアメリカの手が働いていたという説があり、論争を呼んで いるが、詳しい実態が明らかでなく、ここでは立ち入らない。 (6)以下ではクリミヤに限定して論じる。ドンバス情勢はクリミヤと類似する面もあ るとはいえ、かなりの程度独自であり、別個の検討課題とされるべきである。 (7)本稿は2022年春から夏にかけての状況を念頭において書かれた。秋以降の新し い動向の検討は次の課題となる。 (2022年9月30日脱稿)[執筆者]塩川 伸明(東京大学名誉教授/ロシア・旧ソ連諸国近現代史)
ISSN 2435-3205