Archive for 東欧

115.ポーランドはEV用バッテリー生産拠点となるか-岡崎拓

概要

ポーランド自動車産業は市場経済体制移行後、外国メーカーの進出とともに成長を果たした。ポーランドは現時点で電気自動車(EV)をはじめとする次世代自動車への適応を迫られており、2000年代以降拡大しているエンジン生産にハイブリッド車(HV)用エンジン生産が加わるとともに、EV用バッテリー生産基地としての役割を獲得しつつある。
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80.ポーランドの責任ある開発のための戦略-田口雅弘

ポーランド国旗

概要

ポーランドは2017年2月、新しい経済プログラム「ポーランドの責任ある開発のための戦略」を閣議決定した。これは、減速しつつある経済を立て直し、経済を成長軌道に戻すとともに国民の生活水準を向上させ、所得を欧州連合(EU)平均にまで高めようとする中長期戦略である。「戦略」が立案された背景と構想の概要を紹介するとともに、その可能性について分析する。

1. 「中所得国の罠」を脱却するためには

ポーランドの名目国内総生産(GDP)の規模は約1兆8000億ズロチ(約50兆円)(2015年現在)で、これは日本の名目GDPの10分の1より少し多い程度である。欧州では、スウェーデン、ベルギーなどと同規模で、ドイツの7分の1程度である。
1人当たりGDPは約1万2500ドル(2015年現在)で、これは日本の1人当たりGDPの3分の1程度である。欧州では、チェコの約1万7570ドル、ギリシャの1万7989ドルより小さく、ハンガリー、クロアチアなどと同じくらいの規模である。またドイツの3分の1程度である。現在、ポーランドの1人当たりGDPは欧州連合(EU)平均の70%程度で、仮にこのまま順調に成長したとしても、EU平均に達するのは早くても15年かかると予想される。最終的に、台湾と同規模の経済は目標として視野に入るだろう。

ポーランドは1989年の体制転換以降、1998年のロシア財政危機の時期は除いて比較的順調にGDPを拡大させてきたが、ドルベースの1人当たり名目GDPの推移で見ると、2008年をピークに伸び悩んでいる。もちろん、2008年の世界金融危機の影響が大きいが、一方で「中所得国の罠」に陥ったとの議論もある。
「中所得国の罠」とは、新興国において1人当たりGDPが中程度の水準に達したところで成長率が長期にわたって停滞する現象で、多くの発展途上国に見られる。ポーランドでは、2008年に1人当たり名目GDPが1万3886ドルに達したところで伸び悩み、2015年現在でも1万2492ドルと、1万4000ドルの壁のあたりで伸び悩んでいる(図参照)。

【図 ポーランドのGDPの推移(2000~2015年)】

【図 ポーランドのGDPの推移(2000~2015年)】

出所:国際通貨基金(IMF):World Economic Outlook Databaseを基に筆者作成

中所得国の罠の原因は、一般的には、従来の労働集約的な成長パターンがある程度限界に達し、他方、さらなる成長のエンジンとなる要素がタイムリーに生まれてこない状況だと考えられている。具体的には、(1)活発な外国直接投資(FDI)とそれによる貿易拡大や雇用拡大、(2)旧国営企業・国家資産の民営化による一時的な政府・地方自治体収入とその資金を活用した公共事業、(3)体制転換を支える国際金融機関やEUなどからの豊富な資金、などをてことした初期的な成長要因が尽き、一方でイノベーション主導的な生産要因が十分に育っていないことが背景にある。
もう一段の成長を達成し先進国並みの水準に達するには、(1)内包的な成長要素(技術開発力、品質の向上)の開発、(2)投資の効率化、(3)高度人材の育成、(4)産業・輸出構造の高度化・多様化、(5)ブランド力の向上、をいかに達成するかが鍵である。つまり、ポーランド経済は「効率向上主導型」から「イノベーション主導型」への転換が必要であるといえる。

2. 転換を目指す新「戦略」
「ポーランドの責任ある開発のための計画(最終文書は「戦略」)」は、これを取りまとめたシドゥウォ政権のマテウシュ・モラヴィエツキ副首相兼開発大臣兼財務大臣・閣僚評議会経済委員会委員長の名前をとって、モラヴィエツキ・プランとも呼ばれる。2016年2月に開発省が中心になって作成した「計画」案が公表され、1年間の社会討議の後、416ページに及ぶ最終案(「戦略」)が2017年2月に閣議決定された。

「戦略」の特徴は、これまで、外資やEU資金に頼っていた成長のエンジンを、独自の経済・社会成長モデルに切り替え、2030年には所得ベースでEU平均に追い付こうという構想を体系的に打ち出していることである。また、国家の産業政策、発展戦略における積極的な役割を明確に規定している点は、これまでの政策から一歩踏み込んでいるといえる。達成指標を、GDP成長率ではなく、所得・生活水準の向上、貧困の削減、地域の均衡的な発展に置いていることも、これまでの主要都市中心型の発展、トリクルダウン的な発想からの転換といえるだろう。その上で、戦略的部門への集中的投資、旗艦プロジェクトの策定、長期対外経済戦略の明確化、公益企業の支援、基幹インフラ(輸送、エネルギー、環境、通信)への集中投資、など具体的な政策を表明している。第4次産業革命(インダストリー4.0)に乗り遅れまいとする意欲も「戦略」から伝わってくる。

「戦略」ではまず、ポーランドが中所得国の罠に陥る要因を挙げている。それらは、研究開発(R&D)投資がGDPの1%程度にすぎないこと、ポーランドで世界企業といえる企業が6社しかないこと、中小企業でイノベーションを展開している企業が全体の13%しかないこと(EU平均は31%)、もともと労働人口比率が低い上にこのまま対策を取らないと20年後には労働年齢人口が現在の700万人から560万人に減少すること、今後税収の減少が予想されること、行政機能が非効率であること、などである。
「戦略」は、次の五つを、安定成長の重点領域として設定している。

☆再工業化 ポーランドはEUの生産基地として成長してきており、技術基盤が整えば、国際競争力を高めることができる。
☆企業のイノベーション開発 ポーランドは、欧州のイノベーションランキングで23位と遅れており、企業のR&Dに対する意欲も低い。そのため、教育の充実、経済システムの改善、需要の掘り起こしなど、広範囲にわたって改革が必要である。
☆中小企業の育成 340万件の中小・零細企業では、民間就業者の70%が働き、GDPの3分の2を生み出している。しかしながら、全体的に小規模の事業所が多く、資金不足で技術革新などが生まれにくい構造になっている。従って、事業の統合促進、法整備、行政的支援などを組み合わせ、この領域の活性化と効率化を実現していく必要がある。
☆開発資金の捻出 ポーランドは、他の先進・中堅諸国と比較して圧倒的に投資力が弱い。また、貯蓄率も低い。従って、貯蓄率を高める工夫、年金資金の流動化、ポーランド開発基金の設立、金融市場の活性化、国有財産の活用などを進める必要がある。
☆海外進出 これまで、低価格が輸出拡大の原動力になっていた。こうした要因が限界に達したため、今後は技術力の向上、ブランド力の向上、輸出品・輸出先の戦略的重点化、政府主導のプロモーションなどが重要になってくる。
この他、所得格差是正、地域格差是正、法・制度整備、電子政府の実現、EU資金の効率的活用などが重点項目として挙げられている。これらは、約180の旗艦プロジェクトで具体化される予定である。
最終的に「戦略」は、2020年にはEU平均所得の76~80%の水準へ、また2030年にはEU平均に達することを目標としている。

3. 「戦略」の課題

「戦略」は、中長期的経済社会政策を体系的に構想した点で極めて重要な指針であるといえる。また同時に、政権与党である「法と正義」(PiS)の方針を実現するための包括的な政策パッケージでもある。すなわち、国家のイニシアチブを高め、国内の成長要因を引き出し、自律的な安定成長を確立するとともに、地域的に平等な発展と社会的弱者に優しい社会の実現に向けたロードマップを描いたものである。

しかしながら、問題点も多く指摘できる。「選択的な部門に集中的に投資する」とあるが、これまで外資や民間企業の自由な発展を原動力としてきた中で、集中的な投資を行う部門を誰がどのように選択していくのかは難しい課題である。経済社会インフラを中心に投資していく場合は、その膨大な資金の裏付けが必要になる。2022年よりEU資金は期待できず、また家計の貯蓄率の増大は絵に描いた餅に終わる可能性が高い。ポーランド開発基金を設立するといっても、その規模は全体の投資の5%程度である。投資をGDPの25%に引き上げるためには、結局は年金受給年齢の引き上げなど、国民にしわ寄せする形で資金を確保していくしかなくなるのではなかろうか。

さらに、R&D投資拡大やインダストリー4.0の推進など、意欲的な政策がちりばめられているが、R&D投資拡大を促進する企業文化をどのように育てるのか(R&D投資をGDPの1.7%まで引き上げる目標)、また規模・資金的に脆弱(ぜいじゃく)な中小・零細企業におけるIoT(Internet of Things:モノのインターネット)導入は可能なのかなど、課題は山積みである。

全体的に見て、EU資金や外資頼みだった成長路線から、国内の成長要因を育てる政策に転換しようとする姿勢は高く評価できる。また、それを行わずしてイノベーション力を高め中所得国の罠から抜け出すことはできない。しかしながら、目標とする数値や資金調達のめどはかなり楽観的である。厳しい見方をすれば、当面は「法と正義」の支持層である地方や農村部の住民に対して、所得の拡大、格差の是正などの展望を描くことによって支持を引き止める効果はあるものの、小粒の経済刺激策の寄せ集めで終わってしまう懸念もある。

とはいえ、成長戦略の根本的な転換を目指す新「戦略」が打ち出されたことは評価すべきであろう。残る課題は「戦略」が絵に描いた餅にならないよう、それを実現するための具体策を積み重ねていくことができるかどうかである。

[執筆者]田口 雅弘(岡山大学大学院社会文化科学研究科教授)

※この記事は、2017年6月6日付けで三菱東京UFJ銀行グループが海外の日系企業の駐在員向けに発信しているウェブサイトMUFG BizBuddyに掲載されたものです。

ユーラシア研究所レポート  ISSN 2435-3205

79.小国スロベニアのグローバル企業コレクトール-小山洋司

スロベニア国旗

概要

コレクトールは、モーター部品の整流子の生産で世界第2位のスロベニアの企業である。1963年に設立され、1968年に西ドイツの企業と技術提携を始めた。熱心に技術を吸収し、研究開発(R&D)に力を入れ、1980年代初めに技術的には「生徒が教師のレベルを追い越した」。中東欧では、短期間に世界的な多国籍企業へと成長したまれな成功事例である。

はじめに

多国籍企業コレクトール(Kolektor)の本社と主力工場は、イドリヤ渓谷(Idrija valley)にある。これは、モーターの部品の整流子(commutator)を生産する従業員700人の企業である。規模は小さいが輸出額でのスロベニア企業のランキングを見ると、2000年の第19位から2014年には第7位になった。この辺ぴな所にある小企業が社会主義時代に西側企業と協力関係に入り、技術力を向上させ、ニッチ市場とはいえ短期間に世界的な企業になったのは非常に興味深い。

1. 会社の設立

スロベニアの首都リュブリャナから西方60キロメートル離れたイドリヤ溪谷では、1490年に現地の川で有機水銀が発見され、16世紀初めには鉱山が開山した。イドリヤには技術者、労働者、商人などが集まった。スペインの鉱山に次いで世界第2位の水銀生産量を誇り、町は栄えた。20世紀後半、世界的に水銀の消費量が減り、価格が下落し、水銀の採掘と精錬は次第に採算が合わなくなってきた。1960年代前半、鉱山が閉鎖され、イドリヤでは失業者が約400人、さらに潜在的な失業者もいた。この町に雇用を提供しようとしてスロベニア政府は、水銀の採掘と精錬に代わる新たな事業を起こすことを考えた。
ところで、1960年代は、ユーゴスラビア経済が中央計画化モデルから市場社会主義へと転換しつつあった時期である。ユーゴスラビアは1948年にソ連と対立して以来、ソ連型社会主義に対する懐疑を深め、1950年に独自の自主管理社会主義の建設に乗り出した。自主管理企業はある程度の自立性を持っていたが、始まってしばらくの間、国家の管理機関による統制も残っていた。1965年の経済改革により、上級国家機関の権限が大幅に縮小され、経済に関する権限の幾つかが企業や自治体に移され、それと共に市場経済的要素が拡大した。

1965年にユーゴスラビアは社会主義国としては初めて関税および貿易に関する一般協定(GATT)に加盟した。この結果、ユーゴスラビア経済が外国投資に開放され、国際分業に組み入れられた。1967年には外国投資法が制定された。当時、スロベニアにはイスクラという総合電機器具メーカーが存在した。イスクラは整流子を含む重要度の低い小規模の生産を閉鎖したが、イドリヤ市が整流子生産を受け入れた。この会社の訓練と教育はイスクラが行い、最初47人の労働者で1963年5月にフル操業するようになった。この小さな企業がコレクトールである。

2. 社会主義時代から続くドイツ企業との提携

イスクラから受け継いだ技術が古かったので、進んだ技術を導入するために外国の戦略的なパートナーが必要であった。外国投資法に基づき、同社は、1968年に当時ヨーロッパ市場のリーダーであった西ドイツの会社Kautt & Bux(以下、K&B)と提携した。K&Bはコレクトールの株式50%超の所有を望んだが、ユーゴスラビアの法律によって許容された上限であった49%を受け入れざるを得なかった。コレクトールはその利用可能な全ての資産を投資し、外国のパートナーは現金、機械と工具、必要なノウハウ、経験およびのれんを投資することになった。
コレクトールは研究開発(R&D)に大いに投資し、K&Bから熱心に技術を吸収し、改良した。1978年には整流子に関連する銅製品のための技術を身に付けた。中間財分野の独自技術の開発について、マリアン・スヴェトリチッチ氏(リュブリアナ大学名誉教授、国際ビジネス論)らは次のように説明している。コレクトールはK&Bのブランド名で、K&Bのチャネルを通じて輸出していたが、顧客は誰がその整流子を生産したかを知っていた。B to B市場での取引であり、コレクトールは既知の顧客のために製品を生産していた。未知の顧客のために生産される最終製品の場合とは違い、ここではブランド名確立のために莫大(ばくだい)な投資をする必要がなかった。潜在的な買い手は、生産が始まる前に自分たちの特別な必要性に合わせてどのような製品を生産するか、そのために用いる工具をどう修正するかをコレクトールとすり合わせる必要があった。このことがコレクトールのR&D活動を促した。

コレクトールは技術と必要な工具の独自開発を始め、1980年にはユーゴスラビアでは85%の市場シェアを持つ整流子の最大の生産者となった。1980年代初め、コレクトールはK&Bを通じて自社の製品の3分の1を外国で売っていた。とはいえ、K&Bのブランド名ではなく、自社で独自に輸出することが許された東欧市場への輸出も拡大しつつあった。

20年間協力する中で、両者の関係も変わっていった。同族会社K&Bは、1975年にErsing and Woerner KGという株式会社(持株会社)に転換した。コレクトールは、1980年代に 幾つかの特許を獲得し、単に知財を吸収し利用していただけの会社から、イノベーター、自分自身の知財を生み出す会社へと変貌し、K&Bと対等なパートナーになった。特許のおかげで、コレクトールの製品の中には、技術的な意味でK&Bのそれさえ超えるものも見られるようになった。こうして、20年の間に両者の間の関係は逆転した。

3. 社会主義から資本主義への体制転換と自立への道

大きな変化が1980年代末に起こった。自主管理社会主義は事実上破綻した。コレクトールは自主管理企業から、明確に定められた所有権を持つ民間企業へと転換しなければならなかった。外国のパートナーとの所有関係も見直され、K&Bとコレクトールとの共同出資は株式に基づく関係に変更された。外国のパートナーの出資分は株式に転換された。財務的な困難を抱えていたK&Bは、この変更を歓迎した。1980年代末以来、K&Bは経営難に陥っていたことからコレクトールを自身の連結財務諸表に組み入れることを望んだ。そのためには多数株所有者にならなければならなかった。所有比率の変更を受け入れることは、コレクトールの経営陣にとって非常に難しい決断であった。結局、1990年にコレクトールは、K&Bが多数株所有者になることに同意したのだが、それはパートナーに対する信頼と市場での利益への期待があったからであった。

このときコレクトールは実に巧妙な仕掛けを考え出した。コレクトールがK&Bに多数株式を獲得するのを許す前提条件として、全ての主要な決定を行うには75%の株式が必要だという新たなパートナーシップ協定を締結したのである。ということは、もしこの4分の3の多数の株式が得られなければ、決定を行うのはコレクトールの経営陣だということになる。
新たな協定で多数株式所有が本当にものを言うのは、利益配分の場合だけであった。K&Bは戦略的投資家からポートフォリオ投資家に変わることを受け入れた。だが、こうした措置もK&Bを救うことができなかった。

1993年初め、Ersing & Woerner KGは莫大な損失を負って解散し、コレクトールにおけるその所有権はK&Bに移管された。1993年夏、状況はさらに悪化し、K&Bは破産手続きを申請した。いかにしてコレクトールをK&Bから切り離し、親会社が引き起こしたダメージを被るのを防ぐか考えなければならなかった。これは、その従属的な立場を克服し、K&Bとの対等なパートナーシップを樹立する良い機会でもあった。K&Bの破産手続きはコレクトールとの関係を根本的に変えた。コレクトールは株式会社であり、この破産した会社の資産の一部に当たるのはK&Bの株式持ち分だけだった。しかし、これは、コレクトールが新たな当事者、つまりK&Bの管財人と対峙(たいじ)しなければならないことを意味した。

もしコレクトールが株式会社に転換されていなかったならば、状況はもっと悪かったことであろう。管財人は共同出資協定に基づいて、外国のパートナーの投資額をまるまる回収したかもしれない。幸いにして、コレクトールは株式会社となっていたので、K&Bの管財人は株式を得ることができただけであった。しかし、問題は、コレクトールにおけるK&Bの株式を購入するのは誰かであった。結局、コレクトールは協定から離脱した。

K&Bの経営不安が伝わる中で、ヨーロッパの主要な顧客は整流子の供給が止まるのを恐れていた。このとき、コレクトールの経営陣は、これらの顧客と直接契約を交わした。信頼できる製品を安定供給することにより、コレクトールは、ついに品質や納期に対する要求が最も厳しい複数の大口顧客からの信頼を勝ち取った。こうした努力が実り、コレクトールは、市場的独立を果たし、自社独自の販売ネットワークを確立し、独自ブランドで活動するようになったのである。こうしてコレクトールはヨーロッパで第1位、世界第2位の整流子生産者になった。

K&Bは1994年2月に米国の整流子メーカー、カークウッドによって買収された。ドイツの会社はKII K&Bという会社名で操業を続けた。K&Bの総資産に加えて、カークウッドはコレクトールにおける50%を少し上回る株式も買収した。新しい所有者との協力は、問題含みであった。カークウッドは全く準備なしに、K&Bとコレクトールの買収手続きに入った。カークウッドの経営陣はコレクトールを全面的に支配下に置きたいと思っていたが、すぐに現実に直面した。4分の3の多数に関する契約上の規定に気付いたのである。『社史』は、コレクトールの経営陣はK&Bの潜在的な買い手にこのことを正しく伝えたものの、管財人がカークウッドにこの重要な情報を伝えてなかったのは明らかだと述べている。異なる利害、二つの異なる現実認識、二つのビジョンおよび二つのビジネス文化が衝突した。こうして「8年間にわたる不愉快な共存」が始まる。

4. 完全独立と多国籍業化

2002年、コレクトールは、KII K&B Europeの51%の買収を提案した。カークウッドはこの申し出を最終的に受け入れ、株式売却に同意した。こうして、コレクトールはドイツの会社K&Bを買収し、ヨーロッパ市場を完全に支配するに至った。『社史』は「生徒が教師を追い抜いた! 設立後40年で、コレクトールは独立した会社になった」と誇らしげに記述している。コレクトールは外国に生産拠点と支店を持つに至った。米国ではグリーンビル工場(ノースカロライナ州)を設立し、ヨーロッパではドイツのK&B(シュツットガルト)、韓国ではSinyung(Gumi(亀尾))を買収した。

とはいえ、プロダクトライフサイクルの短縮による急速な製品の陳腐化と急速な技術進歩は既存の開発戦略を脅かし始めた。コレクトールの対応は生産の多角化であった。整流子の生産・販売をコアとしながら、コレクトールは関連する分野にも進出した。自社の発展および国内外での買収の結果、その製品構成は拡大した。コレクトールは、今では三本柱のビジネスモデルに基づき、三つの分野、すなわち、自動車技術、建築技術および工業技術の分野で活動している。2011年には、コレクトール・グループ全体で3,076人が働き、その取引高は4億5000万ユーロであった。特に整流子の分野では、このグループはヨーロッパ市場で80%のシェア、グローバル市場では20%のシェアを持つ。コレクトールは常に技術的な発展を重視し、年間売上高の約5%の資金を研究・開発に充ててきた。保有する特許は50を超える。

5. 対外直接投資に取り組んだスロベニアの独自性とコレクトール経営者の果たした役割

中東欧のポスト社会主義諸国が外資導入(対内外国直接投資(FDI))に熱心であるときに、スロベニアは対外FDIに積極的に取り組んでいた。コレクトールは、スロベニアの独自の政策による最大の成功例である。1989年から1991年にかけて中東欧諸国では体制転換が生じた。これらの国々は市場経済への移行や企業のリストラのために格闘せざるを得ず、そのため、1990年代前半、深刻な転換不況を経験した。スロベニア自身、旧ユーゴスラビアを構成していた1980年代後半に経済危機、共和国間の対立、社会主義の破綻、共和国の分離・独立という激動を経験した。しかし、スロベニアの場合、すでに体制転換以前に擬似的な市場経済を持っていたので転換不況で苦しむことはなかった。むしろ1990年代初め、旧ユーゴスラビアの市場を失ったことにより生産が減退した。この国の多くの企業はその損失をカバーするために積極的に西側市場に進出した。その中でコレクトールは技術力を絶えず向上させ、外国市場に進出し、2000年代には対外FDIを行い、多国籍企業へと進化したのである。

ドイツのK&Bは良い教師の役割を果たした。技術移転だけでない。特に1970年半ばにコレクトールで製品の品質低下が生じたのに現地で適切な対応がなされなかったときに、K&Bの責任者が生産現場に出向き、喝を入れ、市場経済が何たるかをスロベニア人に教え、直接責任制を確立した。コレクトールはK&Bから進んだ技術や経営手法を積極的に吸収しただけではなく、顧客の外国企業の要望に応える中で独自技術を発展させてきた。

コレクトールの側には常に優秀な企業家が存在した。集権的な計画経済とは異なり、旧ユーゴスラビアは半ば市場経済の国であった。共和国政府からの指示や介入はほとんどなかった。共和国政府に代わってイドリヤ市当局が行動し、イスクラの生産の一部をこの自治体に受け入れることを決め、工場の用地・建物を提供し、その後も保護者的役割を果たした。それ故、企業家が腕を振るう余地が大きかったともいえる。

コレクトールの経営者たちは1960年代半ば以来、市場経済におけるビジネスや西側企業との付き合い方を学び、経験を積んでしたたかな経営者へと成長した。彼らの判断が決定的に重要であったのは、1980年代末にK&Bが経営困難に陥り、銀行に対する信頼度を高めるために株式比率を変更してコレクトールを連結財務諸表に組み込みたいと提案してきたときであった。資本比率をK&Bに有利な50.01%:49.99%へと変更することと引き換えに、全ての主要な決定を行うには75%の株式が必要だという新たなパートナーシップ協定締結を、コレクトールは相手側に飲ませたのである。この条項は後に、特に新しいパートナーのカークウッドとの関係において重要な意味を持った。また、経営陣の結束および会社と地域への従業員の長期的な献身もコレクトールの競争優位構築に寄与した。

参考文献
Jaklic, Andreja and Marjan Svetlicic (2003), Enhanced Transition through Outward Internationalization: Outward FDI by Slovenian Firms, Aldershot (UK): Ashgate.
Leskovec, Ivana and Martina Peljhan (2009), Idrija: The Story of the Five Century-old Silver Stream, the Municipality of Idrija(『社史』).

[執筆者]小山 洋司(新潟大学名誉教授)

※、この記事は、2017年4月5日付けで三菱東京UFJ銀行グループが海外の日系企業の駐在員向けに発信しているウェブサイトMUFG BizBuddyに掲載されたものです。

ユーラシア研究所レポート  ISSN 2435-3205

62.注目の新興国リトアニアの光と影-課題も多いが魅力ある欧州のビジネス拠点-蓮見 雄

リトアニア国旗

要旨

リトアニアは旧ソ連から独立して以来、急速なキャッチアップを果たした注目の新興国であり、ビジネス環境への評価も高い。とはいえ、同国は賃金上昇や人口流出など多くの課題に直面している。しかし、これまで欧州連合(EU)の政策を積極的に受け入れ、一貫してビジネス環境の改善を続けてきている。また交通の要衝であるクライペダ経済特区の存在を考えれば、リトアニアは依然として魅力ある欧州のビジネス拠点候補地の一つといえる。

小規模だが急成長する新興国

リトアニアの経済規模はポーランドの約10分の1にすぎないが、注目の新興国である。リトアニアは、世界経済フォーラムによる2015-2016年の競争力ランキングで36位、世界銀行による2016年のビジネス環境ランキングで20位と高い評価を得ている。2005~2014年には、労働生産性(1人当たりの実質生産額)が約35%上昇した。これは欧州で最も速いペースであり、10年余りの間に経済規模は倍増した。市場経済化への取り組みを始めたばかりの当時の1人当たり国内総生産(GDP)はEU平均の3分の1であったが、2013年にはその73%までキャッチアップしている(図1)。

図1 リトアニアの急速なキャッチアップ

図1 リトアニアの急速なキャッチアップ

出所:IMF, Republic of Lithuania, IMF Country Report, No. 15/139, May 2015, p.36を基に筆者作成(表記方法を一部修正)

2004年のEU加盟は、リトアニアの経済成長を刺激したものの、それは消費バブルと住宅バブルを伴っていた。投資と消費は、EU加盟前後の経済成長をけん引したが、世界金融危機の影響で2009年のGDPは対前年比14.7%減と急落した。しかし、2011~2014年の実質GDP成長率は年平均で4.1%と回復も急速であった。2013年以降は、賃金上昇や失業率の低下などによって個人消費が成長に寄与し、住宅価格も上昇の兆しを見せている。
2015年は1.6%成長にとどまったが、これは貿易の2割を占めるロシアの景気低迷で対ロシア輸出が4割減となったことが影響している。図2から明らかなように、リトアニアの貿易相手の大半はEU諸国であるとはいえ、依然としてロシアは重要な貿易相手国の一つである。このため、リトアニアの経済を占う上ではロシアの動向にも留意する必要がある。

図2 リトアニアの貿易地域構造(2014年)(単位:%)

図2 リトアニアの貿易地域構造(2014年)(単位:%)

出所:経済協力開発機構(OECD):OECD Economic Surveys Lithuania, March 2016, p.58を基に筆者作成

だが、欧州委員会によれば、リトアニアはアジア向けなど輸出先の多角化を進め、堅調な内需が続けば、2016年以降は3%前後の成長率に回復するとみられる。
リトアニアは、2009年の金融危機への対応に追われ財政赤字が拡大したが、通貨切り下げは行わず、通貨リタスのユーロペッグを維持し、専ら歳出削減によって均衡を回復し、2015年にはユーロを導入した。2015年の財政赤字は対GDP比0.9%、債務残高も43%弱と健全財政を維持している。

直面する課題

同時に、リトアニア経済は多くの課題を抱えている。特に問題とされているのが、賃金の高騰と人口流出である。
製造業はGDPの2割を占めるが、食品加工、化成肥料、プラスチック製品、石油精製などの原材料加工、あるいは繊維・衣料、木材・家具などの労働集約的なものが中心であり、厳しい国際競争にさらされている。リトアニアの3大企業といえば、石油精製ORLEM Lietuva、スーパーマーケットチェーンMaximaを所有するVilniaus prekyba、肥料や物流(KLASCO)のKoncernas ACHEMOS GRUPĖである。つまり、旧ソ連時代の資産を民営化した企業と市場経済化の中で急成長した商業企業である。こうした産業を支えてきたのは低賃金であった。2015年のリトアニアの労働コスト(1時間当たり、公的部門を除く)は6.8ユーロで、EU平均の25ユーロの3分の1にも満たない。
しかし、2000年初頭以来、労働コストは倍増しており、付加価値の高い経済を目指して産業構造の転換を図らなければ、コスト上昇とともに国際競争力を失う中進国の罠に陥りかねない。ところが、労働人口の高齢化と熟練労働者の不足から賃金が高騰しているにもかかわらず、効率改善に役立つ設備や機械への投資は伸び悩んでいる。リトアニアで生産される製品の7割近くは輸出されるが、石油製品、肥料、プラスチック製品、肉・魚加工品、穀物など主要輸出品の競争力は低下している。EU内における市場シェアも、ここ数年縮小を続けている。
従って、旧ソ連時代の遺制に依存する産業構造を脱し、国際競争力のある産業を育成しなければならない。そこで重要となるのが人的資本であるが、リトアニアは人口流出の危機にある。独立当時の人口は370万人であったが、毎年2万人以上の人口流出が続き、2015年には290万人を割り込んでしまった。特に、失業率の高い若者(20~29歳)の流出が目立っており、大きな懸念材料となっている。

魅力ある欧州のビジネス拠点

このように国民経済という単位でリトアニアを見る限り、多くの課題が残されていることは否定し難い。しかし、欧州のビジネス拠点として考えた場合、リトアニアは依然として魅力ある投資対象である。例えば、リトアニアはヴィリニュス、カウナス、クライペダなど交通の要衝に経済特区を設け、創業から6年間の法人税免除、その後10年間は法人税率7.5%(通常の半分)、配当金・不動産税の免除などによって外国投資を誘致している。中でも注目すべきはクライペダである(図3)。

図3 リトアニアの主な経済特区と交通の要衝クライペダ

図3 リトアニアの主な経済特区と交通の要衝クライペダ

出所:Invest Lithuania: The Lithuanian Investment Promotion Agency.

この地域は同国のGDPの12%を占め、ヴィリニュス、カウナスに次ぐ第3の経済中心地であるのみならず、欧州市場向けのビジネス拠点としても有力な投資対象地域の一つとなっている。それは、この地はバルト海に面した不凍港があり、道路網、鉄道網、航空網を含めて欧州市場においても重要な交通の要衝であるからだ。また、クライペダ郡の2012年の付加価値構造を見てみると、25%が工業(建設業を除く)、43%が卸売業・小売業、運輸業、ホテル、フードサービスであり、その多くがバルト海沿岸部で生み出されている。
リトアニアは、これまでもEUの政策を積極的に受け入れ「ブリュッセルの優等生」として振る舞い、金融危機に際してもユーロペッグを維持し、財政を再建し、構造改革を進めてきた。高成長の半面、格差の拡大など成長のゆがみが生じていることも事実だが、リトアニア政府は、一貫してビジネス環境の改善に取り組んできており、今後もこの点は揺らがないだろう。従って、依然としてリトアニアは魅力ある欧州のビジネス拠点の一つといえる。最後に、単一市場が形成されているEU市場への投資を考える際には、先に指摘したクライペダのように、国という単位だけでなく、欧州市場の中の地域という視点から投資対象を検討することが、とりわけ重要になることを指摘しておきたい。

[執筆者]蓮見 雄(立正大学経済学部教授)

※この記事は、2016年6月9日三菱東京UFJ銀行グループが海外の日系企業の駐在員向けに発信しているウェブサイトMUFG BizBuddyに掲載されたものです。

ユーラシア研究所レポート  ISSN 2435-3205

49.なぜポーランドはプラス成長を続けるのか -家本博一

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概要

ポーランドでは、外国投資、多国籍企業の進出による生産・流通・技術の成長エンジンの創出、金融市場の整備・拡充、建設需要、耐久消費財需要などが一体となって経済成長が進んだ。これが可能となったのは、連立政権ながらも歴代の政権が、ほぼ一貫して対外開放型、外資活用型、政府主導型の成長戦略を採用してきたからである。

ポーランドでは、外国投資の増加、多国籍企業の進出を契機とする生産・流通・技術の成長エンジンの創出、金融市場の整備・拡充、国内建設需要、耐久消費財需要、国境を越える労働移動などが一体となって経済成長が進んだ。これが可能となったは、歴代の連立政権が、下院議員選挙結果で政党の組み合わせを変えながらも、ほぼ一貫して対外開放型、外資活用型、政府主導型の成長戦略を採用してきたからである。
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