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小国スロベニアのグローバル企業コレクトール-小山洋司

スロベニア国旗

概要

コレクトールは、モーター部品の整流子の生産で世界第2位のスロベニアの企業である。1963年に設立され、1968年に西ドイツの企業と技術提携を始めた。熱心に技術を吸収し、研究開発(R&D)に力を入れ、1980年代初めに技術的には「生徒が教師のレベルを追い越した」。中東欧では、短期間に世界的な多国籍企業へと成長したまれな成功事例である。

はじめに

多国籍企業コレクトール(Kolektor)の本社と主力工場は、イドリヤ渓谷(Idrija valley)にある。これは、モーターの部品の整流子(commutator)を生産する従業員700人の企業である。規模は小さいが輸出額でのスロベニア企業のランキングを見ると、2000年の第19位から2014年には第7位になった。この辺ぴな所にある小企業が社会主義時代に西側企業と協力関係に入り、技術力を向上させ、ニッチ市場とはいえ短期間に世界的な企業になったのは非常に興味深い。

1. 会社の設立

スロベニアの首都リュブリャナから西方60キロメートル離れたイドリヤ溪谷では、1490年に現地の川で有機水銀が発見され、16世紀初めには鉱山が開山した。イドリヤには技術者、労働者、商人などが集まった。スペインの鉱山に次いで世界第2位の水銀生産量を誇り、町は栄えた。20世紀後半、世界的に水銀の消費量が減り、価格が下落し、水銀の採掘と精錬は次第に採算が合わなくなってきた。1960年代前半、鉱山が閉鎖され、イドリヤでは失業者が約400人、さらに潜在的な失業者もいた。この町に雇用を提供しようとしてスロベニア政府は、水銀の採掘と精錬に代わる新たな事業を起こすことを考えた。
ところで、1960年代は、ユーゴスラビア経済が中央計画化モデルから市場社会主義へと転換しつつあった時期である。ユーゴスラビアは1948年にソ連と対立して以来、ソ連型社会主義に対する懐疑を深め、1950年に独自の自主管理社会主義の建設に乗り出した。自主管理企業はある程度の自立性を持っていたが、始まってしばらくの間、国家の管理機関による統制も残っていた。1965年の経済改革により、上級国家機関の権限が大幅に縮小され、経済に関する権限の幾つかが企業や自治体に移され、それと共に市場経済的要素が拡大した。

1965年にユーゴスラビアは社会主義国としては初めて関税および貿易に関する一般協定(GATT)に加盟した。この結果、ユーゴスラビア経済が外国投資に開放され、国際分業に組み入れられた。1967年には外国投資法が制定された。当時、スロベニアにはイスクラという総合電機器具メーカーが存在した。イスクラは整流子を含む重要度の低い小規模の生産を閉鎖したが、イドリヤ市が整流子生産を受け入れた。この会社の訓練と教育はイスクラが行い、最初47人の労働者で1963年5月にフル操業するようになった。この小さな企業がコレクトールである。

2. 社会主義時代から続くドイツ企業との提携

イスクラから受け継いだ技術が古かったので、進んだ技術を導入するために外国の戦略的なパートナーが必要であった。外国投資法に基づき、同社は、1968年に当時ヨーロッパ市場のリーダーであった西ドイツの会社Kautt & Bux(以下、K&B)と提携した。K&Bはコレクトールの株式50%超の所有を望んだが、ユーゴスラビアの法律によって許容された上限であった49%を受け入れざるを得なかった。コレクトールはその利用可能な全ての資産を投資し、外国のパートナーは現金、機械と工具、必要なノウハウ、経験およびのれんを投資することになった。
コレクトールは研究開発(R&D)に大いに投資し、K&Bから熱心に技術を吸収し、改良した。1978年には整流子に関連する銅製品のための技術を身に付けた。中間財分野の独自技術の開発について、マリアン・スヴェトリチッチ氏(リュブリアナ大学名誉教授、国際ビジネス論)らは次のように説明している。コレクトールはK&Bのブランド名で、K&Bのチャネルを通じて輸出していたが、顧客は誰がその整流子を生産したかを知っていた。B to B市場での取引であり、コレクトールは既知の顧客のために製品を生産していた。未知の顧客のために生産される最終製品の場合とは違い、ここではブランド名確立のために莫大(ばくだい)な投資をする必要がなかった。潜在的な買い手は、生産が始まる前に自分たちの特別な必要性に合わせてどのような製品を生産するか、そのために用いる工具をどう修正するかをコレクトールとすり合わせる必要があった。このことがコレクトールのR&D活動を促した。

コレクトールは技術と必要な工具の独自開発を始め、1980年にはユーゴスラビアでは85%の市場シェアを持つ整流子の最大の生産者となった。1980年代初め、コレクトールはK&Bを通じて自社の製品の3分の1を外国で売っていた。とはいえ、K&Bのブランド名ではなく、自社で独自に輸出することが許された東欧市場への輸出も拡大しつつあった。

20年間協力する中で、両者の関係も変わっていった。同族会社K&Bは、1975年にErsing and Woerner KGという株式会社(持株会社)に転換した。コレクトールは、1980年代に 幾つかの特許を獲得し、単に知財を吸収し利用していただけの会社から、イノベーター、自分自身の知財を生み出す会社へと変貌し、K&Bと対等なパートナーになった。特許のおかげで、コレクトールの製品の中には、技術的な意味でK&Bのそれさえ超えるものも見られるようになった。こうして、20年の間に両者の間の関係は逆転した。

3. 社会主義から資本主義への体制転換と自立への道

大きな変化が1980年代末に起こった。自主管理社会主義は事実上破綻した。コレクトールは自主管理企業から、明確に定められた所有権を持つ民間企業へと転換しなければならなかった。外国のパートナーとの所有関係も見直され、K&Bとコレクトールとの共同出資は株式に基づく関係に変更された。外国のパートナーの出資分は株式に転換された。財務的な困難を抱えていたK&Bは、この変更を歓迎した。1980年代末以来、K&Bは経営難に陥っていたことからコレクトールを自身の連結財務諸表に組み入れることを望んだ。そのためには多数株所有者にならなければならなかった。所有比率の変更を受け入れることは、コレクトールの経営陣にとって非常に難しい決断であった。結局、1990年にコレクトールは、K&Bが多数株所有者になることに同意したのだが、それはパートナーに対する信頼と市場での利益への期待があったからであった。

このときコレクトールは実に巧妙な仕掛けを考え出した。コレクトールがK&Bに多数株式を獲得するのを許す前提条件として、全ての主要な決定を行うには75%の株式が必要だという新たなパートナーシップ協定を締結したのである。ということは、もしこの4分の3の多数の株式が得られなければ、決定を行うのはコレクトールの経営陣だということになる。
新たな協定で多数株式所有が本当にものを言うのは、利益配分の場合だけであった。K&Bは戦略的投資家からポートフォリオ投資家に変わることを受け入れた。だが、こうした措置もK&Bを救うことができなかった。

1993年初め、Ersing & Woerner KGは莫大な損失を負って解散し、コレクトールにおけるその所有権はK&Bに移管された。1993年夏、状況はさらに悪化し、K&Bは破産手続きを申請した。いかにしてコレクトールをK&Bから切り離し、親会社が引き起こしたダメージを被るのを防ぐか考えなければならなかった。これは、その従属的な立場を克服し、K&Bとの対等なパートナーシップを樹立する良い機会でもあった。K&Bの破産手続きはコレクトールとの関係を根本的に変えた。コレクトールは株式会社であり、この破産した会社の資産の一部に当たるのはK&Bの株式持ち分だけだった。しかし、これは、コレクトールが新たな当事者、つまりK&Bの管財人と対峙(たいじ)しなければならないことを意味した。

もしコレクトールが株式会社に転換されていなかったならば、状況はもっと悪かったことであろう。管財人は共同出資協定に基づいて、外国のパートナーの投資額をまるまる回収したかもしれない。幸いにして、コレクトールは株式会社となっていたので、K&Bの管財人は株式を得ることができただけであった。しかし、問題は、コレクトールにおけるK&Bの株式を購入するのは誰かであった。結局、コレクトールは協定から離脱した。

K&Bの経営不安が伝わる中で、ヨーロッパの主要な顧客は整流子の供給が止まるのを恐れていた。このとき、コレクトールの経営陣は、これらの顧客と直接契約を交わした。信頼できる製品を安定供給することにより、コレクトールは、ついに品質や納期に対する要求が最も厳しい複数の大口顧客からの信頼を勝ち取った。こうした努力が実り、コレクトールは、市場的独立を果たし、自社独自の販売ネットワークを確立し、独自ブランドで活動するようになったのである。こうしてコレクトールはヨーロッパで第1位、世界第2位の整流子生産者になった。

K&Bは1994年2月に米国の整流子メーカー、カークウッドによって買収された。ドイツの会社はKII K&Bという会社名で操業を続けた。K&Bの総資産に加えて、カークウッドはコレクトールにおける50%を少し上回る株式も買収した。新しい所有者との協力は、問題含みであった。カークウッドは全く準備なしに、K&Bとコレクトールの買収手続きに入った。カークウッドの経営陣はコレクトールを全面的に支配下に置きたいと思っていたが、すぐに現実に直面した。4分の3の多数に関する契約上の規定に気付いたのである。『社史』は、コレクトールの経営陣はK&Bの潜在的な買い手にこのことを正しく伝えたものの、管財人がカークウッドにこの重要な情報を伝えてなかったのは明らかだと述べている。異なる利害、二つの異なる現実認識、二つのビジョンおよび二つのビジネス文化が衝突した。こうして「8年間にわたる不愉快な共存」が始まる。

4. 完全独立と多国籍業化

2002年、コレクトールは、KII K&B Europeの51%の買収を提案した。カークウッドはこの申し出を最終的に受け入れ、株式売却に同意した。こうして、コレクトールはドイツの会社K&Bを買収し、ヨーロッパ市場を完全に支配するに至った。『社史』は「生徒が教師を追い抜いた! 設立後40年で、コレクトールは独立した会社になった」と誇らしげに記述している。コレクトールは外国に生産拠点と支店を持つに至った。米国ではグリーンビル工場(ノースカロライナ州)を設立し、ヨーロッパではドイツのK&B(シュツットガルト)、韓国ではSinyung(Gumi(亀尾))を買収した。

とはいえ、プロダクトライフサイクルの短縮による急速な製品の陳腐化と急速な技術進歩は既存の開発戦略を脅かし始めた。コレクトールの対応は生産の多角化であった。整流子の生産・販売をコアとしながら、コレクトールは関連する分野にも進出した。自社の発展および国内外での買収の結果、その製品構成は拡大した。コレクトールは、今では三本柱のビジネスモデルに基づき、三つの分野、すなわち、自動車技術、建築技術および工業技術の分野で活動している。2011年には、コレクトール・グループ全体で3,076人が働き、その取引高は4億5000万ユーロであった。特に整流子の分野では、このグループはヨーロッパ市場で80%のシェア、グローバル市場では20%のシェアを持つ。コレクトールは常に技術的な発展を重視し、年間売上高の約5%の資金を研究・開発に充ててきた。保有する特許は50を超える。

5. 対外直接投資に取り組んだスロベニアの独自性とコレクトール経営者の果たした役割

中東欧のポスト社会主義諸国が外資導入(対内外国直接投資(FDI))に熱心であるときに、スロベニアは対外FDIに積極的に取り組んでいた。コレクトールは、スロベニアの独自の政策による最大の成功例である。1989年から1991年にかけて中東欧諸国では体制転換が生じた。これらの国々は市場経済への移行や企業のリストラのために格闘せざるを得ず、そのため、1990年代前半、深刻な転換不況を経験した。スロベニア自身、旧ユーゴスラビアを構成していた1980年代後半に経済危機、共和国間の対立、社会主義の破綻、共和国の分離・独立という激動を経験した。しかし、スロベニアの場合、すでに体制転換以前に擬似的な市場経済を持っていたので転換不況で苦しむことはなかった。むしろ1990年代初め、旧ユーゴスラビアの市場を失ったことにより生産が減退した。この国の多くの企業はその損失をカバーするために積極的に西側市場に進出した。その中でコレクトールは技術力を絶えず向上させ、外国市場に進出し、2000年代には対外FDIを行い、多国籍企業へと進化したのである。

ドイツのK&Bは良い教師の役割を果たした。技術移転だけでない。特に1970年半ばにコレクトールで製品の品質低下が生じたのに現地で適切な対応がなされなかったときに、K&Bの責任者が生産現場に出向き、喝を入れ、市場経済が何たるかをスロベニア人に教え、直接責任制を確立した。コレクトールはK&Bから進んだ技術や経営手法を積極的に吸収しただけではなく、顧客の外国企業の要望に応える中で独自技術を発展させてきた。

コレクトールの側には常に優秀な企業家が存在した。集権的な計画経済とは異なり、旧ユーゴスラビアは半ば市場経済の国であった。共和国政府からの指示や介入はほとんどなかった。共和国政府に代わってイドリヤ市当局が行動し、イスクラの生産の一部をこの自治体に受け入れることを決め、工場の用地・建物を提供し、その後も保護者的役割を果たした。それ故、企業家が腕を振るう余地が大きかったともいえる。

コレクトールの経営者たちは1960年代半ば以来、市場経済におけるビジネスや西側企業との付き合い方を学び、経験を積んでしたたかな経営者へと成長した。彼らの判断が決定的に重要であったのは、1980年代末にK&Bが経営困難に陥り、銀行に対する信頼度を高めるために株式比率を変更してコレクトールを連結財務諸表に組み込みたいと提案してきたときであった。資本比率をK&Bに有利な50.01%:49.99%へと変更することと引き換えに、全ての主要な決定を行うには75%の株式が必要だという新たなパートナーシップ協定締結を、コレクトールは相手側に飲ませたのである。この条項は後に、特に新しいパートナーのカークウッドとの関係において重要な意味を持った。また、経営陣の結束および会社と地域への従業員の長期的な献身もコレクトールの競争優位構築に寄与した。

参考文献
Jaklic, Andreja and Marjan Svetlicic (2003), Enhanced Transition through Outward Internationalization: Outward FDI by Slovenian Firms, Aldershot (UK): Ashgate.
Leskovec, Ivana and Martina Peljhan (2009), Idrija: The Story of the Five Century-old Silver Stream, the Municipality of Idrija(『社史』).

[執筆者]小山 洋司(新潟大学名誉教授)

※、この記事は、2017年4月5日付けで三菱東京UFJ銀行グループが海外の日系企業の駐在員向けに発信しているウェブサイトMUFG BizBuddyに掲載されたものです。

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